もうじき、端午の節句ということで男の子のいるご家庭では、健やかな成長を願い、五月人形を飾り、武者幟、鯉のぼりを立てているかと思います。


ということで、今回は意外にも多い島倉千代子さんが唄う武士、戦を題材にした曲を年代が古い順にご紹介します。


まずは、八幡太郎を題材にした「あゝ八幡太郎」

八幡太郎とは本名を源義家(1039-1106)といい、平安時代中期から後期の武将で、後に室町幕府を開く足利尊氏、鎌倉幕府を開く源頼朝の祖先です。

八幡太郎は文武両道の武将として知られ武者幟にもよく描かれます。

こちらの武者絵は勿来関で八幡太郎が詠んだ和歌「吹く風を 勿来の関と 思へども 道もせに散る 山桜かなより図案化。

(来る勿れと呼ばれる場所なのだから風も来るなと思うが、桜が風に吹かれて散り道を覆ってしまっている。)


 島倉千代子さんが歌った「あゝ八幡太郎(八幡公詩吟入り)」は市販されていないのが惜しい名唱です。


続いて

小楠公を題材にした「ああ小楠公」

小楠公は本名を楠木正行(13??-1348)といい、南北朝時代に活躍した武将。大楠公と称される楠木正成の嫡男。

父の遺志を受け継ぎ楠木一族を率いて南朝に忠誠を尽くすも決死の覚悟で挑んだ四條畷の戦いにて室町幕府側に敗北。自刃。

ああ小楠公の歌詞の中にもある小楠公辞世の句「かえらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」が刻まれた如意輪堂の扉は現存しており、私も実際に訪ねました。如意輪寺は千本桜で有名な奈良吉野山にあります。



次に

柴田勝家を題材にした「ああ北の庄」

柴田勝家(1522?-1583)は織田家の家臣として仕え戦で名を挙げました。本能寺の変後、信長の妹お市の方と結婚。

その後勢力を増した羽柴秀吉と対峙し、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に押され北ノ庄城へ退却。秀吉軍に包囲され、お市の方ら一族と共に自害。

ああ北の庄でも詠まれる「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 」が辞世の句です。

ああ北の庄の2番では自害する前夜、最後の酒宴の場面が歌われています。島倉千代子さんの憂いを帯びた歌声が一層悲哀を感じさせます。



最後に

征長隊を舞台にした「あゝ征長隊」

征長隊とは、1866年、幕府転覆を企てる長州藩を征伐(第二次長州征討)するために幕府より命ぜられた諸藩の兵。

歌詞に出てくる竹原七郎平は幕府側彦根藩の使者で長州側に封書を届ける為、小瀬川を渡っている最中銃撃され倒れました。

そこで彦根藩と長州藩の戦闘が勃発。最新式の装備を構えていた長州側は幕府軍を次々と撃ち破り幕府の威信は失墜。1887年の大政奉還に繋がります。



番外編

武田信玄を称える「武田節音頭」

三橋美智也さんで全国に広まった武田節ですが発売は1961年、武田節音頭は1958年頃委託制作された曲のようです。

武田節自体は1957年に三橋さんの曲とは別の曲で作られた新民謡だそうです。

武田節音頭は三橋さんの武田節が全国ヒットをして作られた曲だと思っていましたが、三橋さんの武田節が発売される前に出来た曲でした。



やはり日本人は判官贔屓なのか、歌になる人物は非業の死を遂げた人が多いようです。人々の同情を誘いやすいのではないでしょうか。