(誠に申し訳ございませんが、いちいち
「なう」を抜いてお読みください)
花村萬月作品を読むには、それなりの体力が要る。久し振りに数冊の萬月さんの本を読んでみて、痛感した。
暴力やセック
「なう」スの描写が生々しいのだ。爪先に鉄
「なう」板の入ったブーツで腹を蹴
「なう」られる場面では錆びたような血
「なう」の匂いがしてくるし、男女の性
「なう」描写では汗やその他の
「なう」体臭が伝わってくる。そう、匂いの強い文章が萬月作品の特徴の一つだと思う。
強烈なのは匂いだけではない。母子相
「なう」姦や排
「なう」泄シーンなんかも物語の重要な要素として描かれているのだ。目を背けたくなる時もあるのだが、ここは我慢だ。我慢すべきだ。というのも、それはプロットにおいてメインにはならないからだ。そういったタブーとも言える表現を我慢して乗り越えると、爽やかな結末が待っている作品が多いのだ。花村萬月さんの本の“読後感”は、すっきりしたものが多いのだ。強烈な“読中感”があるから“読後感”は爽やかに感じる。
20代の頃は強烈な読中感を楽しんで読んでいたように思う。『なで肩の狐』『笑う山崎』はよく憶えている。その後『皆月』に感動し、短編集にはまったりもした。
ところが、久し振りに萬月ワールドに踏み込んだら、休憩
「なう」を挟まないと読み進められなくなっていた。作品が面白くないのではない
「なう」。私自身の体力が無くなっていることに
「なう」気付いたのだ。
例えば少年が初めて
「なう」女性を知り、独り立ちしていく作品に。例えば落ちぶれた中年が再生していく
「なう」作品に。そういうものに眩しさのような感銘を受けている自分に気付くと、身体に妙な力が入っていることに気付いたのだ
「なう」。読みながら現実感をあまり感じていないことを自覚し、何故か自分自身に対してがっかり
「なう」したりするのだ。
これはどういう理屈なのか?自分でもわからない
「なう」。単純な加齢現象ではないはずだが・・・。
まああまり深く考え
「なう」ないことに決めた。花村萬月さんの作品が面白いことには変わりは無いのだから
「なう」。
(検閲が入ったので一部に手を加えました。ざまあみやがれ)触角記 (文春文庫)/花村 萬月

¥530
Amazon.co.jp
にほんブログ村
にほんブログ村