復興庁の参事官がTwiiterで「暴言」を吐いたことがニュースになっている。日本国の中で立場のある人間が、しかも震災からの復興を進める役人が、個人の「愚痴」を全世界に向けて放つのは如何なものか、というのがお叱りの意見の中でも多いようだ。でもそもそもTwitterとは個人の愚痴を全世界に向けて放つものである。つぶやく方もどうかしてるが、それにいちいち目くじらを立てる方もどうかしてるのかも知れない。
さて、Facebookに接していても「愚痴」めいた書き込みを目にすることは多い。最近も実名・顔写真付きで書かれたそういう類いのものを見てしまった。この後味の悪い、なんとも言えないどす黒い感情。その苦みを強制的に皆さんにシェアしたいと思う。この記事自体の存在と論理に大きな矛盾があるのだが、そこはオトナのアレでどうぞ我慢していただけると幸いです。
【CASE#1】
ネット上にわざわざ「〇〇というイベントに参加したのだが、残念なイベントだった」「不満だった」と書く人がいる。
「あれは良かった」という投稿なら理解できるが、不満な感情をどうして敢えてSNSで発表してしまうのか、私には甚だ疑問に思えてしまう。しかも、Facebookといった主催者も他の参加者もその投稿を見られる環境において、なぜ「不満だった」と積極的に表明する必要があるのか?そんなものは自分の日記(鍵付き)にでもこそっと書いていればいいことだ。
参加費や入場料など、金銭が少なからず絡んでいる事情があるのは承知である。しかし、他の参加者の心に楽しんだ余韻が残る中で、このような書き込みは非常に無粋に感じる。確かに、いろんな人がいろんな感情を持っていることは健全だ。しかしそれをわざわざSNSに書く特別な意味は何なのか?同意者を募っているのか?一人では寂しいからか?
【CASE#2】
仕事の愚痴をネット上でぶちまける奴もいる。
実名は書かずとも、誰のことを言っているのか、周囲の人にとっては簡単に推測できる内容で言っている。それに同調している奴らがコメントを重ねている。
品のある大人は、不特定多数が目にすることのできる環境で仕事の愚痴は言えないはずだ。「愚痴を言う人」というレッテルを貼られれば、それはなかなか剥がしようがないことを知っている、ということも理由の一つだろう。それと、ここが大きいのだと思うが、愚痴の原因の他に、その仕事を楽しめる要素を持っているからだ。
仕事の愚痴は、ごく内輪の気心の知れた仲間の中でしかこぼしてはいけないと思う。その愚痴の真意がわかったり同意ができたり、逆に反論もできる相手にしか伝えてはならないのだとも思う。また、仕事の内容を詳しく知らない家族にも言うべきではない。その制御ができるかできないかは、その人に「品」があるかないかの差になってくるのではないか。
以上、愚痴の愚痴でした。
実際のこれらの記事の投稿者には「これはおれ(あたし)個人のただのつぶやきだよ」と開き直られる始末だろうが、「品」のない無粋な投稿はなるべく目にしたくない。
ネット社会って、便利だけど面倒臭い。
現在大人である我々よりも、幼い頃からネット社会が当たり前の存在としてある今の子供たちが大人になった将来には、もっと難しくややこしく面倒臭くなっているのではないだろうか。
その時の参事官クラスの人間がどんな愚痴をネット上でつぶやいているのか、今から予想するのも面白いかも知れない。
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