赤井寅三 セラピー -13ページ目
 クールジャパンの流行に感化されてしまったのか、それともとうとうおっさん色の濃度が高まってきたのか。気が付いたらここ数年は、「和」で「楽」なものにやたらと惹かれるようになった。作務衣が好きなことは前にも書いたが(こちらをご覧ください)、他にも手ぬぐいや雪駄や扇子や浴衣にも興味が出てきている。特に夏は「和」で「楽」なものが活躍するのだ。

 私は靴下が嫌いだ。別に水虫に悩まされてはいない。でも苦手だ。ただ、靴下を履かずに靴を履くことはもっと苦手なので、仕方なく靴下を履いている。朝、履く瞬間だけはしゃきっとしても、後々窮屈に感じてくるのが何とも鬱陶しい。最初の一口が心地良いという点ではビールと似ている。でもビールと靴下のどっちを取るか迫られたら迷わずビールを選ぶ。当ったり前だが。

 そんな理由もあって、できれば裸足でワイルドに過ごしていたい。特に夏は。だから雪駄や下駄を履いている。素足を包む風を感じながら歩くのは最高に気持ちがいいのだ。サンダルよりは、鼻緒でがっちり掴める雪駄や下駄がいい。もちろんスニーカーのように長時間&長距離を歩くのには適していないが、商店街をぶらぶらしたり本屋で時間を過ごしたりするぐらいなら大抵下駄履きである。

 大須商店街なんかを下駄でカランカラン歩くと、なんとなくそれっぽい気分が高まってより心地良い。
 雑多な、猥雑な、活気のある町。薄汚れた居酒屋の佇まい。昭和な路地裏。古びた電気やガスのメーター。明らかに垂直ではない電柱。タピオカや唐揚げのカップを手に歩く若い人たち。自転車を降りて話し込んでいるかつて若い娘だった人たち。招き猫広場のジャグラー。どう見てもオタク。どう見てもヤクザ。ホワイトステテコで煙草を吸うおじいさん。観音様で写真を撮る外国人。
 そんな風景を下駄で歩いて行くだけで、大須らしさが増してくる気がしてワクワクするのだ。





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 アニマルセラピーという言葉を憶えた。
 言葉を頭で記憶した、という意味もあるが、動物に癒されることを体感できた、という方が正しいかも知れない。

 私は昨年の夏から、ウサギ(♀)と友達になった。今年で満4歳を迎えるネザーランドドワーフという品種のウサギだ。
 ウサギが人に懐くか懐かないかは、個体差があるそうだ。ラッキーなことにこのウサギは私にとても懐いてくれる。もちろん、出会って間もない頃はそれなりに警戒をされたが、今では飼い主同様に私を慕ってくれている(と思う)。
 ウサギは頭や背中を撫でられるのが大好きだ。手のひらで優しく頭から尻尾にかけて撫でてやると、じっとしゃがんで身を任してくれる。しばらく撫で続けて、ふと手を止めると、「あれ?もう終わりなんかい?」という表情で私を見る。再び手を頭に近づけると、目を閉じて撫でられるのを待つ。

………かわいい…。

 さらに、こちらは撫でるつもりがなかった時でも、たまたま手のひらがちょうどいい高さにあると、グイッと頭を手のひらの下に潜り込ませてきて、「撫でろ」と無言の指令を出してくる。無理矢理にこじ入れて来るので、有無を言わさない気迫すら感じさせる。
 ウサギはほとんど鳴かないから、声によるコミュニケーションを自発的にできない。だから仕草で意思表示をしてくる。初めは私にも仕草の意味が分かりにくかったが、だんだんわかってくるとますますかわいい。


 しかしその一方では、冷静にウサギを見る自分がいるのだ。それは、「この子は私よりも早くに命を終えてしまうんだろうな」という寂しさである。
 満4歳のウサギは、人間に換算すると40歳ぐらいとのこと。私と同世代だ。私もウサギも平均寿命まで生きるとすれば、おのずと私の方が取り残される。とても寂しいが、その覚悟は動物と付き合う上で絶対に必要だと思う。小学校の校庭でウサギやニワトリを飼うということは、こういう理解と覚悟を子供たちに教えるためにあるのだろう。
 どんな生命にでも、必ず終わりが来る。これは揺るぎない事実だ。だったら、生きている間にどれだけ人生(兎生)を楽しめるかどうかに賭けてみよう。最後の最後までみっちりアンコが詰まった太く濃い人生(兎生)を送ってやろう!
 こうして私は今日も、ウサギの頭を撫でながら、自分や自分の大切な人たちの生命の有限性についてしみじみ思い入ってしまうのだ。

 …とここまで書いたところで、背中をツンツンとつつかれた。鼻で私をせっついて「遊んでくれ」と言っている。

 …かわいい。





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 復興庁の参事官がTwiiterで「暴言」を吐いたことがニュースになっている。日本国の中で立場のある人間が、しかも震災からの復興を進める役人が、個人の「愚痴」を全世界に向けて放つのは如何なものか、というのがお叱りの意見の中でも多いようだ。でもそもそもTwitterとは個人の愚痴を全世界に向けて放つものである。つぶやく方もどうかしてるが、それにいちいち目くじらを立てる方もどうかしてるのかも知れない。

 さて、Facebookに接していても「愚痴」めいた書き込みを目にすることは多い。最近も実名・顔写真付きで書かれたそういう類いのものを見てしまった。この後味の悪い、なんとも言えないどす黒い感情。その苦みを強制的に皆さんにシェアしたいと思う。この記事自体の存在と論理に大きな矛盾があるのだが、そこはオトナのアレでどうぞ我慢していただけると幸いです。

【CASE#1】
 ネット上にわざわざ「〇〇というイベントに参加したのだが、残念なイベントだった」「不満だった」と書く人がいる。
 「あれは良かった」という投稿なら理解できるが、不満な感情をどうして敢えてSNSで発表してしまうのか、私には甚だ疑問に思えてしまう。しかも、Facebookといった主催者も他の参加者もその投稿を見られる環境において、なぜ「不満だった」と積極的に表明する必要があるのか?そんなものは自分の日記(鍵付き)にでもこそっと書いていればいいことだ。
 参加費や入場料など、金銭が少なからず絡んでいる事情があるのは承知である。しかし、他の参加者の心に楽しんだ余韻が残る中で、このような書き込みは非常に無粋に感じる。確かに、いろんな人がいろんな感情を持っていることは健全だ。しかしそれをわざわざSNSに書く特別な意味は何なのか?同意者を募っているのか?一人では寂しいからか?

【CASE#2】
 仕事の愚痴をネット上でぶちまける奴もいる。
 実名は書かずとも、誰のことを言っているのか、周囲の人にとっては簡単に推測できる内容で言っている。それに同調している奴らがコメントを重ねている。
 品のある大人は、不特定多数が目にすることのできる環境で仕事の愚痴は言えないはずだ。「愚痴を言う人」というレッテルを貼られれば、それはなかなか剥がしようがないことを知っている、ということも理由の一つだろう。それと、ここが大きいのだと思うが、愚痴の原因の他に、その仕事を楽しめる要素を持っているからだ。
 仕事の愚痴は、ごく内輪の気心の知れた仲間の中でしかこぼしてはいけないと思う。その愚痴の真意がわかったり同意ができたり、逆に反論もできる相手にしか伝えてはならないのだとも思う。また、仕事の内容を詳しく知らない家族にも言うべきではない。その制御ができるかできないかは、その人に「品」があるかないかの差になってくるのではないか。


 以上、愚痴の愚痴でした。
 実際のこれらの記事の投稿者には「これはおれ(あたし)個人のただのつぶやきだよ」と開き直られる始末だろうが、「品」のない無粋な投稿はなるべく目にしたくない。

 ネット社会って、便利だけど面倒臭い。
 現在大人である我々よりも、幼い頃からネット社会が当たり前の存在としてある今の子供たちが大人になった将来には、もっと難しくややこしく面倒臭くなっているのではないだろうか。
 その時の参事官クラスの人間がどんな愚痴をネット上でつぶやいているのか、今から予想するのも面白いかも知れない。





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 次の目標に向けて準備を重ねる日々が続いている。本心は一日でも早く新しい扉をブチ開けて飛び出したい気持ちなのだが、無鉄砲な性格が行きすぎると無謀となるのは火を見るよりも明らかである。これほど、意識して慎重に事を進めようとしている自分は生まれて初めてかも知れない。ストイックな精神状態に自己陶酔しているのかも、と思ってしまう。ちょっとMっ気が強まっている41歳の初夏。

 私はうつに罹るまで、比較的順調な人生を過ごして来られた方だと思う。一浪はしたが4年で大学を卒業し、希望の職種に就き、20代のうちに父親にもなれた。30代に入ってからは会社でも役員を務めていたし、自分名義のマンションも手に入れることができた。実際は自分としては会社内での出世にも不動産にも興味がなかったのだが、なんとなくの成り行きで両方とも手に入ってしまった。一般的な観点から見たらごくごく幸せな人生だったのだ。
 それが、34歳の秋にうつ病と診断されてからは一転する。トンネルに入り込んでしまって、脱出するのに4年かかった。他の方の療養事情を本やネットなどを見ると、私のこの「4年間」というのは短い方だと思う。10年以上病気と闘っている方もいらっしゃるのだ。とにかく私は4年かかってトンネルから脱出できた。脱出してから、以前とは変わった見え方ができるようになった。風景にしても、人間関係にしても、これからの自分の人生にしても。

 ところで、私には「樹見(きみ)」と自分で名付けた趣味がある。花見、ならぬ樹木を見る「樹見」だ。何てことはない。街路樹のケヤキやらクスノキやらイチョウやらの葉や幹を見て「いいなあ」と思うだけだ。以前はこんな感覚は全く無かった。うつを克服できて初めて味わえるようになった感覚だ。
 ―――花見の季節が過ぎれば、誰からも教えられないのに、木々は新しい葉を芽吹かせ始める。柔らかく明るい緑はだんだんと濃さを増し、梅雨の頃になると成熟した濃厚な緑色へと変わる。その後に来るであろう真夏に備えて、緑は雨と共にエネルギーを自らの幹や根に貯め込んでいく。街中であろうと郊外であろうと、葉をつける木は雨に抵抗しない。防御もしない。ただひたすら、雨も風も受け入れている。肯定している。―――その姿が頼もしいのだ。

 次のステップに進みたい現在の私には、こういう木々の姿がとても励みになっている。
 自分に降りかかるあらゆる物事を否定せず、受け入れ、自分の栄養にしてしまう生命力。そして何事もないように毎日街に立ち続ける、凛とした姿。
 何よりも、こんな気持ちを感じられるようになった自分に対して、病気を克服できた自覚が今でも湧いてくる。それがうれしいのだ。







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 よく、うつは「心の風邪」と称されている。
 これは、風邪と同じように、どんなに元気な人でも罹ってしまう恐れがある病気ですよ、という意味から来た表現だと思う。確かにそうかも知れない。私ですら罹ってしまったぐらいだから。
 でも、「風邪」という語感から来る、何とはなしに軽い病気だというイメージを与えがちなのはいかがなものか。罹ってしまった人やその周りの人たちをとりあえず安心させようとする意図を持った言葉であることは想像できる。しかしこの軽いイメージのせいで、「心の風邪」という表現が、わかりやすいようなわかりにくいような、立ち位置がはっきりしない言葉であるのは、ちょっとした危機感を感じる。病気と闘っている真っ最中の人にとっては「風邪」といった甘っちょろいものではない。
 だから、はっきりと「うつ病」と表現した方が納得がいくのだ。

 「率直に言って、うつ病だと思われます」と医師に診断され、休養することになった2006年の暮れのことは今でも鮮明に思い出せる。好きだった仕事を休むのは、楽しみを取り上げられた気がしたし、仕事仲間に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分はこれからどうなってしまうんだろう、という不安と恐怖が頭をどんよりと覆っていた。
 しかし、「うつ病」と診断されたことでほっとしたのも事実だ。それまでの数か月悩まされていた不調が病気のせいだったのかとわかったからだ。誰の仕業でもない、自分が悪いわけでもない。「病気のせいなんだ」と思えたことで、頭のどんよりが少し軽くなった。

 私が闘病中に励みにしていた表現の一つが、「うつは必ず治る病気」だ。適切な治療と療養があれば、必ず治る、と。この言葉には大きな勇気をもらった。
 いつまで闘病を続けたら治るのか、気が遠くなることも多かった。もちろん、苦しい我慢の時期だった。でも、「いつかは必ず治る」と思えたことで、なんとか、どうにか、持ちこたえられたのだ。

 ザ・ブルーハーツの「泣かないで恋人よ」の歌い出し、「遅すぎることなんて本当は一つもありはしないのだ/何するにせよ思った時がきっとふさわしい時」が、じわーっと心に沁みた時期だった。沁みた後で元気が出れば、「リンダリンダ」もガンガン聴けたのだ。




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