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《遠い昔、深夜放送が好きだった人たちへ贈る小説》間々田陽紀の世界

■好きな音楽、好きな映画、好きなサッカー、好きなモータースポーツなどをちりばめながら、気ままに小説(243作品)・作詞(506作品)を創作しています。ブログも創作も《Evergreen》な風景を描ければと思っています。

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小説短編集 【69】すれ違いのダイアリー(原稿用紙30枚)


※琉生は赤坂一ツ木通りを赤坂見附駅に向かって歩いていた。今から10年前20歳の琉生は、この通りをバンドのメンバーたちと一緒に期待に胸を膨らませて歩いていた。あの日琉生と一緒に歩いていたバンドのメンバーたちの姿は、もう消え去っていた。
 
 今、琉生の頭の中では、夢と言う初め光り輝き後に色あせた正体不明な存在が曖昧な存在となりつつあった。20歳の琉生にとって夢とは実現するはずのものであったが、今30歳になっていた琉生にとっては実に中途半端なものに変わっていた。
 
 夢は叶わぬもので諦めるものであると、最近の琉生は考えるようになっていた。琉生がそう思うのは無理もなかった。大学2年生の時にプロのバンドとしてデビューしていた琉生の音楽生活は、贔屓目に見ても順調とは言い難かった。
 
 10年前赤坂一ツ木通りを歩いていた琉生は、赤坂にある音楽事務所で正式にプロのミュージシャンとして契約を交わして、弾む様な足取りで事務所を出て今日と同じように赤坂見附の地下鉄の駅に向かって歩いていた。少しは街並みの様子は変わっていたのだろうが、それに比べて琉生のミュージシャンとしての置かれている状況は様変わりしていた。
 
 バンドでリードボーカルと楽曲全曲の作詞作曲を担当していた琉生は、自分が創り出す楽曲に何故だか絶対的な自信に満ちていた。そしてそれこそデビューしてから2,3年は、琉生の自信を裏付けるような評価が得られていた。アルバム制作の依頼はコンスタントに入って来ていたし、ライブ活動もスケジュールを空けるのが難しいくらいの状況が続いていた。
 
 勿論音楽業界でも、琉生のバンドに対する評価は高まって行くばかりだった。だがそんな状況が様変わりしたのは、琉生が思うような楽曲づくりが出来なってからだった。当時の琉生には納得できる詩もメロディも創り出すことが出来ない日々が続いていた。そしてそれは周囲の反応から判断しても、自分が周りからの期待を裏切っていたのは間違っていなかった・・・。


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小説短編集 【70】永遠の噓だったなんて(原稿用紙30枚) 

※智樹が小説の動機付けに繋がるダイアリーを書き始めてから、智樹の本棚に何冊のダイアリーが積み上げられただろう。それこそ初めて智樹がダイアリーを綴り始めたのは高校生の時だった。もっともダイアリーと言っても使わなくなったノートに、退屈な授業の合間に悪戯書きを自由気ままに綴り出したのが切っ掛けだった。
 
 今25歳になっていた智樹は、机の隣に置いてある大きな本棚の一番下の棚に、放置されていたダイアリーの束を見つめていた。目の前の大きな机の片隅に放置されていた最新のダイアリーは、ほとんど開かれることがなくなっていた。
 
 大学生の頃から小説の新人賞に応募し始めた智樹は、自身が創作する小説のヒントの全てを高校生の時から書き始めていたダイアリーの中から得て来ていた。流れ過ぎた時間の中で高校生の或いは大学生の智樹が、その時々の様々な風景を前にして悩んだことや考えたことなどから、智樹は小説の一文を紡ぎ出していた。
 
 そして大学に入学してから2年後、小説を書き続けて出来上がった作品を順番に出版社の新人賞に応募していた智樹に、初めて嬉しい結果がもたらさせたのは智樹が20歳の時だった。予選通過なども全くなかった中で、智樹が投稿した小説が初めて、ある出版社主催の新人賞の佳作に選出されたのだった。
 
 智樹のパソコンの投稿済作品のフォルダー中から、新しく受賞作品と名付けたフォルダーの中に移行した初めての作品だった。あの時智樹の傍らには、受賞をともに喜んでくれた同じ大学の同級生の玲奈がいてくれた。智樹も玲奈も20歳の時だった。
 
 今玲奈のことを語るとすれば全て過去形で語るしかないことは、25歳になっていた智樹には自身の未熟さを思い知らされることと同一のことだだった。20歳で出版社の編集者にマンツーマンで小説家として指導を受けていた智樹は、編集者と智樹自身の努力のお陰で新人小説家として周囲から、それなりの評価を得るまでになっていた・・・。


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小説短編集 【71】ジュークボックスが鳴り続けてる(原稿用紙30枚)


※優し過ぎた木葉への想いに豊樹は、いまだに振り回されていた。あの夜木葉の20歳の誕生日に、ふと立ち寄ったカフェバーで2人は初めて本気でお酒と向き合った。勿論それまでにも真似事くらいのお酒を口にすることがあった2人が、少しだけ背伸びをして次から次へとビールを口に運んだ。

 何処かで勢いに任せて普段とは違ったことをしなければとつまらない衝動にかられた2人は、シックなカフェバーにお似合いの古いジュークボックスから流れ出ているオールディーズナンバーに合わせて不器用で不自然な動きのダンスを、互いの身体を寄せ合いながら踊り続けた。

 今から半年前の忘れられない風景だった。その夜から豊樹からの連絡に木葉が全く反応することがなくなった。電話もメールも所在無げに虚しい反応のない世界に入り込んでいた。一体あの夜、2人に何があったと言うのだろう。いや豊樹が木葉に何をしたと言うのだろう。そんなことを考え続けている豊樹の頭の中では、あの日以来ジュークボックスが鳴り続けていたのだった。

     ※

 豊樹が木葉と出会ったのは1年前のコンサートスタッフのアルバイト先だった。偶然オフィシャルグッズの販売を担当することになった2人は、互いに同じ20歳であるという事だけで何故かしら運命さえ感じているようだった。もっとも、それは豊樹だけのことだったのかもしれなかった・・・。


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小説短編集 【72】君が好きだったプレイリスト(原稿用紙30枚)

※宏太が打ち合わせを終えて事務所を出ると、目の前に古木の桜からピンクの花びらが風に舞っているのが目に入った。毎年3月のこの時期になると、事務所前の桜の様子を目にすることがあったはずだが、何故だか康太には今年の桜交じりの風景が特別なように思われてならなかった。
 
 理由など何もなかった。とにかく何となく、そう思われて仕方なかったのだ。今から2年前音響エンジニアになるための専門学校を卒業して、今の事務所に宏太は見習いスタッフとして採用されていた。それから2年、あっという間に時が流れたように宏太には思えていた。
 
 正直今の宏太は2年間の事務所での仕事を経験して、より一層音響エンジアとして力を付けて行きたいと考えていた。高校時代バンド活動をしていた宏太は高校を卒業する時にバンド活動をメインに続けていくか、バンド活動から離脱して当時興味のあった音響エンジニアの技術を身につけるか最後の最後まで悩んだ。
 
 高校時代組んでいたバンドがコピーを続けるかオリジナル楽曲を創るかで揉めていたこともあって、宏太は気まずい雰囲気のバンドから脱退したのだった。バンドを脱退した宏太は自らのバンド活動の中でも音響については積極的に担当していたし、大好きなバンドのライブ活動やコンサートに行ったには優れた音響技術に感動させられていた。
 
 そんな中で宏太は最終的に高校卒業後、音響エンジニアになるための専門学校へ進学した。専門学校時代も宏太のプロの音響エンジニアになるという思いが薄れていくことなどなく、2年間で基本的な知識やスキルを身に着けることが出来ていた。
 
 そんな宏太は専門学校時代からアルバイトとして出入りしていた音響事務所に、専門学校卒業後も引き続きお世話になていた。見習いスタッフとして採用された宏太は、2年経った今では契約スタッフとして活動をするまでになっていた・・・。


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小説短編集 【73】深夜放送ラプソディ(原稿用紙30枚)

※川崎はいつも通り喫茶店開店の準備のために階段を手摺につかまりながら、ゆっくりと降りて行った。40代前半で喫茶店を始めていた川崎は、昨年で70歳になっていた。店舗兼住宅である今の建物で、川崎の両親は長年古書店を営んでいた。
 
 そんな両親が突然互いの実家のある鹿児島へ帰ると言い出したのが、川崎が放送作家をしていた43歳の時だった。大学生時代から制作のアルバイトとしてラジオ局に出入りしていた時に、川崎は偶然当時ある番組のディレクターから番組の台本を書くように頼まれた。
 
 偶然の声掛けを切っ掛けに制作のアルバイトではなく放送作家としてラジオ局に出入りするようになった川崎は、大学卒業後はプロの放送作家として活動を始め出したのだった。もともと中学生時代から深夜放送が好きだったこともあって大学時代からラジオ局にアルバイトとして出入りするようになっていたが、川崎は詩を書くのも大好きだった。
 
 深夜放送を聴きながら詩作を続けていた川崎は物を書くことに初めから抵抗がなかったこともあり、ラジオ番組の台本を書くことにも無理なく対応できた。そんな川崎は大学卒業後はプロの放送作家として活動していたが、実は両親が突然古書店を閉めて田舎に帰ると言い出した時、川崎自身も色々な意味で不安定な立ち位置に悩んでいた。
 
 実は40代になってからの川崎には放送作家としての仕事の依頼が、年々減少してきていた。そんな所に両親が古書店を閉めると言い出したので、川崎は以前からずっと考えていた喫茶店をやってみようと考えた。もともと両親は古書店を継いで欲しいと思っていなかったこともあり、川崎の申し出を了解してくれた。
 
 川崎が40歳の時のラジオ局の番組制作現場は、それこそ川崎が大学生の頃の20年前とは様変わりしていた。川崎が得意としていた細部へも拘った台本をもとにした番組作りは、本当に少なくなってきていた。番組の進行表に簡単にメモ書きを加えたような台本で、番組制作が行われていたのだ・・・。


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