最近になって再燃した考古学(その6) | 脳溢血からのゆうき

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お早うございます。



津田史学では戦後ずっと記紀造作説が唱えられて来ましたが、記紀は稗田阿礼(ひえだのあれ)と太野安万侶が編纂したのは周知の事です。全部が全部造作のわけが無いですよ。天孫降臨の地が何故糸島郡かと言えば、朝日、夕日は何処でも当たりますが、やはり太陽信仰なんですよ。“天”ですね。



この糸島郡には有名な古代遺跡の〔三雲遺跡〕『和妙抄』では〔雲須〕やはりここでも“三、御”みと言う字が良く出てきます。昭和40年の発掘で鏡〔舶戴鏡37面〕〔仿戴鏡5面〕、他に太刀や玉類が多数出土しています。ことに人々の目を奪ったのは日本最大の鏡です。日本製の太陽信仰と結びついた祭祀の為の鏡です。しかもすでに発掘されていた〔三雲遺跡〕など合わせて漢鏡等の出土において、実に日本最大量の鏡の出土地であると共に二二ギノ命によって「太陽のふりそそぐ地」として賞揚されている聖地だったのです。



後は避けて通れないのが[銅鐸・銅剣・銅矛]と倭の五王と高句麗好太王碑文です。『三国志』に続く中国の史書は『宋書』であるんですが、この宋は南宋の劉宋(420年~479年)です。倭の五王は「讃」から始まり「珍」「斉」「興」そうして「武」です。讃は〔仁徳―雄略〕と結びつけていますが、甚だ疑問です。



そのほかにも全部の王に近畿天皇を当てはめていますが、土台無理が有ります。『宋書』に出て来る倭王「武」の上表分に出ている有名な文句です。「東は毛人を征する事55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らぐること95国。」は、中国の都(南宋劉宋の健康、今の南京)を原点とした表記であり、決して近畿を原点としては解り得ないのです。倭王「武」は文中で自分の事を、二回も“臣”と書いてある。高句麗好太王碑文とも合致するんです。


碑文には[倭]の五王との激突した戦いをつぶさに書いてある、生きた金石文です。この碑文にまで、学者達は改ざんしていると…。

「武」が言う“衆夷”とは自分達(東夷)をふくむ周辺の倭人(九州)を指す表現であり〔毛人〕はさらにその東【瀬戸内海西半分(強)〕であると思うのです。



近畿を原点とした従来の読み方では倭王が自分を(天子)の位置に置き、西を(夷)と称し、すぐ東を(毛人)と称した事になるんです。〔東夷の国々〕のひとつとして記された倭国の記事としてこれはめちゃくちゃですよ。こんなめちゃくちゃのままで中国側が正規の史書に記録する、そんな事は断じてありえません。…また長くなりました。



金曜日に病院へ行ったのですが、予約したにもかかわらず1時間ほど待ちました。他の患者が話してましたが、予約を取るのに2時間待ったと…。急患だったらどうするのですかね? 

何とかして、予約だけでも早く出来ないものでしょうか。



明日又書きます。