最近、梵我一如とまではいかないけど、そういう世界観が分かってきたように感じる。
何て言えばいいんだろう、自分は自分でしかないけれど、自分はどこにでもいるようにも思える感覚。
世界は僕と関わりを持ってるから、ある意味、僕が無くなれば世界も変わるんじゃないかっていう、なぜか満足した感覚(笑)
実存主義の哲学者は、自ら社会に関わって自己と他者との関わりを築くことで、自分というものがちゃんと作られるって考えたんじゃないかと思ってます。
でも、2人部屋の寮で1年過ごしたり、狭い人部屋で2人で寝たり、僕は最近他人との関係を築いているのに、なぜか自己という感覚が薄いように思いました。
逆に、自分を最も強く感じるのは友人がこないような道で自転車をこいでいる時。
渋谷のスクランブル交差点の中にいる時。
遠くのお店で一人で外食してる時。
やっぱり、他者の解釈によりかからないで、自分を感じてる瞬間って僕は好きです。
無制約的なものは無制約的なもののままにしておくことの良さというかなんというか、
物事を急いで分かったつもりにならないことの良さを感じるようになってきてるんじゃないかと個人的には思ってます。
人はどうしても制約的な中にしか意味を見いだせない生き物な気がしちゃうんだけど、
それだけじゃ何か満足できない様な感覚にとらわれている自分がいる。
それって僕には嬉しい事かな。
俗に言う意味での幸せにはなれないのかもしれないけど、
「よりよく」自分を知れると思う。
まあ、意味の上で生活している僕たちには関係ないことなのかもしれないけど。
友達が
「意味があってほしくないものなんですか?」
っていう問いを書きこんでいた。
彼自身の答は「祈り」だそうです。
ある世界の解釈を肯定することにおいて、祈りや信仰の要素はあると思います。
自ら制約に束縛されることは、生きていくためには非常に有意義で、
しかし、無制約的なものを捉えようとする時においては無意味でもあるかと思います。
彼が言いたいことは分かりません。
でも、僕が彼を束縛することは良くない様な気がするので、
それはそれでいいとも思います。
ただ一つ。
こういう所で共感を生むことのできるのは、言葉の凄いところだと思います。
言葉によって生きているから、同じように言葉で切り取ったものなら、言葉の上で扱える。
人間は意味の中で意味によって生きている。
ならば、その言葉に振り回されるのが人生。
でも、振り回されないように生きるのも人生。
僕は前者の方が幸せな気がするけど後者として生きていきたい。
こんなことを考えていたら、一人で遊んでみたくなって、
ヒトカラ(一人カラオケ)とかヒトプリ(一人プリクラ)とかやって、
その写真をFacebookにあげたら、炎上したかと思うほどに
コメント来ててlikeも押されてて
なんだか面白かったです。
そんな感じです。
今後はちゃんと更新したいです(笑)