竹谷とし子です。

 

国後島と択捉島では日本人墓地を訪れ、お線香を手向け、手を合わせました。

 

 

 

国後島古釜布(クナシリ島フルカマップ)墓地

 

今回のビザなし交流団の訪問前に、草刈りをしてくださっていました。

 

日本人墓地のまわりは、ロシア人墓地になっていました。土葬で、柵で囲ってあるお墓と、そうではないお墓がありました。手前のお墓は、きれいに花で飾られていましたが、草が生い茂っているお墓も少なくないようでした。日本人だけでなく、ロシア人のお墓も、すでにご家族がこの島にいない状況になっているのかもしれません。1994年に大地震があり、大陸に戻ったロシア人の方も多かったと聞きます。

 

お墓の手入れがされないという問題は、日本人墓地だけではないということを知りました。

 

隣接するロシア人墓地

 

日本人の方々の墓地は、どなたのお墓か、あるいは、ご遺族が生存されているか、ひとつひとつ確認する事まではできていないようです。引き揚げ時に、北海道に到着する前に亡くなった方も少なくなかったと、元島民の方から伺ったことがあります。

 

人のお墓を撮影する事はどうかと思ったのですが、元島民の方が、これらの写真をご覧になって現在の墓地の状況を確認して、交流団が墓地を訪問した事を、喜んでいらっしゃいましたので、撮影しておいてよかったと思いました。容易に墓参ができない場所にあるという事情を考えると、できるだけ現地の状況をお伝えした方がよいと思いましたので、のせさせていただきます。

 

 

 

 

 

 

国後島古釜布墓地までは舗装された道路があり、事前にロシア人の方々の車を手配していただき、分乗して行きました。ここは良いほうで、道がない日本人墓地も多いそうです。

 

 

択捉島でも、一番大きな町である紗那(シャナ)の墓地を訪問しました。こちらも、事前に草刈をしてくださっていました。

 

 

 

 

 

紗那墓地では、中学2年生まで択捉島に暮らしていた元島民の伊藤さんの読経で、58人の交流団で手を合わせ、お線香を供養し、お墓に眠る方々のご冥福を祈りました。こちらは小高い山の中腹にあり、海が見渡せそうな場所でした。日本人墓地のまわりには、山の上の方まで、ロシア人の方々の墓地が続いていました。

 

 

 

 

 

 

戦後ロシアに実効支配されている北方領土での墓参は、政府の粘り強い交渉により、昭和39年に初めて実現したということです。以来、その時の政治状況などで中断したこともあったそうですが、これまで52か所の墓地で墓参が実施されています。詳しい経緯にご関心ある方はぜひ内閣府北方対策本部と北海道のホームページをご覧になってみてください。

 

 

墓地の調査をした元島民の臼田さんの話を船上で伺いました。今は人が住んでいない場所にある墓地は、熊がでるので、ロシア人のハンターと一緒に入るそうです。これまで20回以上訪問している伊藤さんは、実際に熊に遭ったそうです。

 

 

墓地調査時には、このように墓標を立てていったそうです。こちらは以前の写真を接写させていだいたものですが、道がない墓地も多く、ロシア人の方が運転するトラックの荷台に乗り、浜を走っていったこともあると伺いました。急斜面を上り下りする場所もあったそうです。元島民の方々が連絡をとりあい、記憶をたどりながら、大変なご苦労をして、色々な思いを胸に抱きながらひとつひとつの墓地を調査してこられたのだと思うと、胸が熱くなります。

 

 

千島歯舞連盟別海支部長の臼田さんは、歯舞諸島志発島ご出身です。臼田さんは現在、別海町に住んでいらっしゃいます。私の故郷標津町とは隣です。今年1月に参議院沖縄北方特別委員会で根室を視察した際にもお会いしました。北方領土返還運動でもお目にかかっています。

 

船の中で貴重な沢山の話を聞かせていただきました。臼田さん、ありがとうございました。

 

最終日に、国後島を背に、一緒に写真を撮りました。

 

 

昨年12月の日ロ首脳会談では、人道的見地から元島民の方々の北方領土墓参をしやすくするとプーチン大統領が明言されましたが、今のところ、まだ実現していません。天候や、ロシアとのコミュニケーションなど難しい問題があるのだとは思いますが、高齢になられている元島民の方々のため、早期に実現するよう私ができることを探していきたいと思います。

 

北方領土訪問の写真は複数回にわけてブログでご紹介させていただきます。最初に、元島民の方々にとって大切な、また、日本人が北方領土で確かに生活していた証しでもある墓地の事をご報告させていただきました。

 

次回は、国後島でいただいた食べ物のことなどもご紹介したいと思います。