竹谷とし子です。
今日は私の好きな詩人の一人である、茨城のり子さんの詩を紹介したいと思います。
茨城のり子さんといえば、「女の子のマーチ」「自分の感受性くらい」、「わたしが一番きれいだったとき」などが有名ですが、皆さんの中でも読まれた方は多いのではないでしょうか。

磨き抜かれた平明な言葉で、人間の喜怒哀楽、人生のあるいは世界のさまざまな出来事を謳う茨城さんの詩は、時には深い内省を、時にはうっとりとするような感情を呼び起こしてくれ、読むたびに「はっ」とさせられます。

いつだったか覚えていませんが、歌手の和田アキ子さんも茨城さんの詩のファンだと言っていたことを思い出しました。


竹谷とし子ブログ


「マザー・テレサの瞳」

マザー・テレサの瞳は
時に 
猛禽類のように鋭く怖いようだった
マザー・テレサの瞳は
時に
やさしさの極北を示していた
二つの異なるものが融けあって
妖しい光を湛えていた
静かなる狂とでも呼びたいもの
静かなる狂なくして
インドでの徒労に近い献身が果たせただろうか
マザー・テレサの瞳は
クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて
じっとこちらを凝視したり
またたいたりして
中途半端なやさしさを撃ってくる!

鷹の目は見抜いた
日本は貧しい国であると
慈愛の目は救いあげた
垢だらけの瀕死の病人を
─なぜこんなことをしてくれるのですか
─あなたを愛しているからですよ
愛しているという一語の錨のような重たさ

自分を無にすることができれば
かくも豊饒なものがなだれこむのか
さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか
こちらは逆立ちしてもできっこないので
呆然となる

たった二枚のサリーを洗いつつ
取っかえ引っかえ着て
顔には深い皺を刻み
背丈は縮んでしまったけれど
八十六歳の老女はまたとなく美しかった
二十世紀の逆説を生き抜いた生涯

外科手術の必要な者に
ただ繃帯を巻いて歩いただけと批判する人は
知らないのだ
瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
慰藉の意味を
死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って
手を握りつづけることの意味を

─言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った



この詩を読んだとき、深い感動とともにほっぺたをぴしゃりと
叩かれたようなショックを受けました。「言葉が多すぎます」
という一語のずっしりとした重い感触。
この詩は「今しなければならないことは何なのか」を、いつも私に思い起こさせてくれます☆