慶應義塾普通部の生活


~立志の巻~

慶応義塾普通部は「普通部通り」を数分歩いた、閑静な住宅街の中にある。本命のE学園、滑り止めのA学園などことごく不合格に終わったものの、入学式はやはり子供心にも嬉しかったものだ。普通部の制服は、真っ黒の学ランに真っ黒の帽子。ボタンや帽子には金ペンのマークがついている。

 入学式は、古めかしい体育館で行なわれた。学長などが「気品の泉源、知徳」、「実学」などの「慶用語」を連呼していたような憶えがある。入学式・オリエンテーションを終え、桜吹雪の中、帰路に着いたが単細胞な私は「ああこれで、俺は日本の社稷を担う人材へのパスポートを手に入れたのだ!!」と熱い気持ちがこみ上げた。もちろん、現在の私は社稷どころかフウテンのような生活を送っている。



 当時の普通部は一学年、2百名程度。それがA~Eの5クラスに分けられる。このクラスは3年間、クラス換えすることなく進級していく。そのため、多感の時期を一緒に過ごす普通部時代の友人が最も信頼でき、まさに親友であると述懐する者が多い。


 入学してすぐ気付いたのは幼稚舎出身者が、外部生(普通部で中学受験して入学した者)に比べ、あまり勉強が出来ないという点であった。これは普通部から入学した者が、地獄のような「お受験ワールドカップ」をつい数ヶ月前に終えたばかりだから当たり前のことである。もちろん、この実力差は半年も経たないうちに解消される。

 この頃、私は恐ろしい野望を持っていた。すなわち、エスカレータ式で進む大学の医学部に入り、「最高の外科医になり、癌を撲滅させる」というものであった。そのため、出来るだけ勉強を進め、他の学生に差をつけておこうとした。事実、苦手の数学は4月のうちに教科書全部をやっつけた。しかも基礎英語のテープを聞きながら。1年のうちは割合勉強が出来た方であった。

 だが、もちろん神というものは全てを見ているものである。学園生活に慣れるにつれ、勉強に対する意欲はどんどん失われていった。私が外科医なんぞになったら、患部を間違えたり、必要な神経を刈り取ったりして、果てはバスティーユ監獄に投獄されていたであろう。

 ただ、進学校でないため、カリキュラムは楽な方である。普通に勉強し、テストの前に一夜漬けすれば、普通に進学できる。さらに要領のいい奴は、それでもAをバシバシ取れるくらいである。一年生の時、一番楽しかったのは生物である。生物室からして面妖であった。平べったいカエル(注:アフリカツメガエル)が沢山養殖されていたり、高機能な顕微鏡、石の標本などがゴロゴロ転がっている。意味も無く、生物好きの友人と放課後忍び込み、簡単なプレパラートを作って顕微鏡で見たり、カエルを解剖したこともある。そういったことが簡単に許されるあたり、アバウトに近い自由な学風と言えよう。


 対して苦手にしていたのは英語で、ネイティブの先生の授業などは最初全く理解できなかった。このジャマイカ出身のW先生は子供が使うカラーバットを持っていたが、これすら恐怖心を煽り立てた。もちろん先生は、子供受けを狙ってのことだったが。

 またもう一人の英語教師O先生もいかがわしく、机に足などをぶつけると「アウチ!」とシャウトするなど、超農耕民族面(づら)なのに喋る言葉の35%は英語であった。さすが、普通部の英語教師は違う!と思っていたが、後日聞いたところによると、ヨーロッパ研修に行った彼の英語は全く通じなかったそうである。


 多くの学生は部活動を行っていた。運動部では野球・テニス部の人気が高かった。また、「オール・スポーツ部」という夏はテニスかソフトボール、冬はスケート・スキー等サークルのような部も存在した。その部はグラウンドの隣のテニスコートでテニスをやっていた。一方、本職のテニス部の方は、日吉のさらに奥まったところにあるグランドを使用することを余儀なくされた。なんで、テニス部がかように冷遇されていたのだろう?恐らくテニス好きの教員が使いたかったからではないだろうか?

 そのテニス部の近くに大きなグラウンドがあり、ラグビー部・野球部が共同で使っていた。私は宮沢賢治の愛読者であったため、「星と石の会」に入ったが、次第に幽霊部員となった。部活動もせず、放課後は体育館でのミニサッカー、中庭での野球に毎日興じていた。また、なぜだか廊下の広間に卓球台が置いてあり、ピンポンも飽きることなくやっていた。

 1年生の夏休み前に水泳学校というものが開かれる。これは福沢諭吉翁が塾生皆泳という持論を持っていたからだという。とにかくかなりきつい合宿らしく、この水泳学校を経験した者は、どんな荒海にだしても大丈夫という触れ込みであった。これはカナヅチである私をかなりブルーにさせた。

 全くカナヅチの生徒は水泳学校の前の事前練習として、三田にある中等部のプールに通わされる。「体育教師殺し」の異名を持つ運動音痴の私は、ここでは全く進歩というものが無いまま、館山での水泳学校が始まった。確か、金谷からフェリーに乗っていった憶えがある。確かにこの合宿は厳しかった。とにかく一日中海の中にいるような感覚であった。

 だが、天は私に味方した。数日程度のうち、3日雨が降ったのである。そのため、2日は完全にオフであった。泳ぐ目的で来て泳げないのであるから、全部自由時間である。私たちはトランプやウノなどのカードゲームに興じた。その結果、私は水泳学校から見事、カナヅチで帰還したのである。

 普通部では給食が出ない。弁当である。だが、そこは育ち盛りの中学生、大概の生徒は2時限の終わるころには早弁で完食していた。そのため、昼休みは食堂でパンを買う

ことになる。このパンが意外においしく、通称「コロッケ」というコロッケバーガーなどが人気があった。あと、餡ドーナツ、ねじっただけのドーナツ、ツイスト、アップルパイなども販売していた。

 とにかく、この頃の食欲というものは凄まじいものがあり、帰路に買い食いというのは当たり前であった。私の場合はさすがに日吉近辺で買い食い、店に入るということはなかったが。また普通部はなぜかしら、日吉というコミュニティーに溶け込んでおり、よく「お宅の生徒がアイスを食べながら歩いていた」、「お宅の生徒がうちの店に来るがどうしたものだろうか」というチクリ電話が入る。まあ余計なお世話であり、かつこ
うした行為は一層温室育ちを育む土壌になるのではないだろうか?

 一年の時は割合真面目だった私は、定期試験の前に良く友達の家で開かれる勉強会に参加した。何が一番驚いたかといえば、その家のでかさである。なにしろ、田園調布だとかの高級住宅街に大豪邸があるのである。しかも門から玄関までの距離が長く、その道の脇にはこまめに剪定されていると思しき高級そうな庭木が茂っている。

 こうした豪邸に住む友人はやはり幼稚舎出身者が多い。また、家の中も凄い。Tという大金持ちの息子の家は、巣鴨の一等地の古い旅館であった。確かやつの部屋には「桔梗の間」という札が貼られていた。そこでトイレに行った際に初めて、人家で迷うとい

う貴重な経験も出来た。家の大きさという点で言えば、大岡山のNの家もデカイ。オヤジは某銀行の幹部であったと思うが、角地に100坪以上の敷地。庭には鉄棒まで備え付けてある。生れて初めて「貧富の差」を実感した時であった。

 普通部の大きなイベントといえばやはり労作展を挙げねばならない。これは夏休み、生徒が作った労作を9月頃展示するというものである。学生の父兄ばかりでなく、普通部受験希望者、他校の生徒などが集まり、かなり盛況なものであった。作品は美術から工芸まで多岐に渡る。

 巨大な油絵、硯、素人が作ったとは思えない本棚、地球儀など博覧会のようであった。本当に中学生が作ったものとは思えない素晴らしい出来栄えで、こうしたあたりに普通部生の底力を感じることが出来る。優秀作品には赤いラベルが貼られる。これが普通部生にとっては栄誉であり、この労作展の水準を高めていた。

 一方、私であるが当時は文学少年であったため、1年は「井上靖の研究」、2年は「江戸戯作者の研究」、3年時は訳のわからない小説を出品した。当然評価を受けることなく、隅の方にひっそりと展示されていた事を鮮明に覚えている。この時、わたしの組に3年間に渡り「結晶の研究」をしたMという面白い男がいた。段々慣れていったのか、1年ごとに結晶はでかくなっていく。3年の時は小ぶりのスイカ並みの結晶をつくり、周囲の度肝を抜いたものであった。

 このMという奴はなかなかの名物男であった。普通部ではいじめといったものが無いのであるが、この男を少しでもからかうと異常にまで大きなリアクションを取るので、皆面白がって遊んでいた。しかし、忘れもしない1年生の秋、Mが「大事件」を起こしたのである。

 ちょっとからかわれて小突かれたMが脱兎の如く、公衆電話に走り「普通部ですが、傷害事件が発生しました。」と、なんと警察に110番したのである。これは機転の利く者が直ぐ受話器を切ったが、我々は警察の逆探知技術の高さを思い知らされることとなる。本当にパトカーが来てしまったのだ。先生は警察に平謝り、Mもからかって遊んでいた者にも勿論、恐い体育教師の雷が落ちた。これ以降、Mをからかうものはいなくなった。またMも懲りたらしく、あまり癇癪を起こさないようになったのは確かである。

 普通部は住宅街にあると先に書いたが、敷地も広くまた緑豊かであった。秋になるとグラウンドの脇には可憐なカラス瓜が妖精のランプのようになり、多感な私の郷愁を誘った。また生物の授業が大好きだった私は、ケント紙に2Hの鉛筆を持ち、カラスムギなどの野生の植物を写生した。まったく今では信じられない所業ではあるが。とにかく、自然に恵まれた学園である。生物の授業では「フィールド・ノート」という自然観察のノートを書かされたが、こと普通部の敷地内で観察を行えば話題に事欠く事は無かった。

 冬になると普通部生はカーキ色のトレンチコートを着る。これは塾高、大学も同様である。学ランにあのコートを着ると直ぐに塾生であることがわかる。しかし、当時うちの親は百貨店の紳士服売り場で働いていた。そのため、流行には敏で流行り始めたPコートを買ってきた。今思えば学ランにはPコートの方が会うに決まっているのだが、Pコートを着ているのが私だけだったので非常に恥ずかしかった憶えがある。だが、卒業する頃にはPコート派は3分の1以上になっていた。

 流行に敏感といえば、幼稚舎からきた生徒は素晴らしかった。彼らは中学生の分際でありながらファッション雑誌を買って読んだりしていた。また、私に洋楽の素晴らしさを教えてくれたのも彼らである。その当時、沢田研二や南こうせつばかり聞いていた私にとって、デュラン・デュランやポリスなどは非常に鮮烈に感じた。これ以降、私は洋楽にのめりこみ米国のビルボード紙、英国のキャッシュボックスなどの最新チャートをチェックするようになった。現在でも邦楽は聞かず、会社のカラオケでもガンズ・アン
ド・ローゼスのウエルカム・トゥ・ザ・ジャングルなどをシャウトし、顰蹙を買っている。

 普通部における冬のイベントといえば、山形の蔵王で行なわれるスキー学校である。確か1年は強制参加、2年からは自由参加であったと記憶している。レベル別にクラス分けが行なわれるが、やはり幼少時からスキーをしている幼稚舎出身者は上位のクラスに入っていた。1週間程度の合宿で、私はというと全く上達せず、ボーゲンが出来る様になったくらいである。前述の名物男Mは「スキーなんぞは慢性的自殺行為だ」と吐き捨て、周囲の失笑を買っていた。しかし、こうした合宿の多さは学生同士の連携を高める狙いがある。親にとっては大変な出費だろうが。こうして、普通部の1年間は瞬く間に過ぎた。

 普通部には落第制度がある。私たちのクラスも一人落第したうえ、2年から落第生がやってきた。しかも私の隣の席となったのである。彼はNといい銀座にある有名老舗和菓子店の御曹司であった。

 ここで落第制度について説明しなければならないだろう。普通部では落第は2回まで許される。2回落第したら、もちろん放校処分という憂き目にあう。対して塾高は連続で落第しなければ大丈夫だ。そのため最高6年間は高校生活をエンジョイすることが可能である。

 このNという男は、ホントは性格が素晴らしく良いものの、少し目つきが悪い。しかも1歳年上である。当然保守的な私は、隣の席に対して尋常ならぬ緊張感を持って臨んだ。だが、よくあるパターンで、教科書やシャーペンの芯を貸し借りするうち、どんどん打ち解けていった。とにかく一緒に居て私たちを楽しませてくれる、幼稚舎出身者に多く見られる巧みな話術を有していた。

 ただ厄介なことにNと遊んでいるうち、どんどん勉学の意欲が薄れていき、1年の頃の「将来、大外科医になる」という野望はもろくも崩れ去った。また1年生の1学期時に築き上げた、他学生へのアドバンテージもこの頃になると、とっくに無くなっていた。私だけではなく、「勤勉」を失った生徒、部活動に勤しむ生徒など雪崩式に成績が降下していった。もちろん、部活をやっていてもしっかり勉強する「塾生の鏡」のような生徒も多かったが。

 私の場合、特に苦手の英語はストップ安状態であった。その一つの理由は教師のE先生であった。風貌は非常に紳士的で、渋い声で淡々と授業を進める。意外にバンカラな教師が多い普通部にとっては稀有な存在であった。

しかし、やはり人間というもの弱点の一つ二つは持っているものだ。E先生の授業は静かに進められるが、誰かがクシャミをすると、凄まじい形相でその生徒を睨みつける。クシャミなんぞは生理現象なのだが、派手にクシャミをすると怒り出して、教室から退出させられた。はじめの頃は何が何だか私たちは全く分からなかった。激しく咳き込んでもOKなのに、クシャミは駄目なのである。全く怒りのポイント、境界線というものが分からない。私たちはE教師の授業は戦々恐々としながら受講する羽目となった。

ここで落第してきたNが先輩から情報を仕入れてきた。それによると「E教師はかつてわざとクシャミをする生徒の悪戯にあい、それがトラウマになっている」という情報であった。にわかに信じがたいものであったが、もしクシャミを催しても、タオルで消音する等の措置を取る事が要請された。

 また2年生の時にはユニークな先生方が多かったと思う。例えば化学のK教師は、初めての時間私たちを普通部の屋上に連れて行き、いきなり哲学的な話をした。もっとも、この頃は誰も理解できる生徒はいなかったが。ただ、個性の無い教師は逆に生徒から見切られる傾向が普通部には見られた。

 アバウトなぐらい自由な校風で個性を尊重し、長所を伸ばすという教育方針が普通部には伺える。ただ、私は3年生卒業時、落第会議の最終ラウンドまで名を連ねる事となった。担任に、「ひとまず家で待機してろ、落第したら電話するから」という恐怖の宣告を受け、その日私は1日中家にこもって怯えていた。ファミコンをやりながらであるが。とにかく電話が鳴ると一挙に心拍数が上がり、恐る恐る受話器を取った。

 また同じく落第会議に堂々と名乗りをあげた、先述のボンボンのNと連絡を取り、落第会議の情報収集に努めた。結局、Nも私もすんでのところで助かり、慶応義塾高等学校に進学する事になった。