慶応義塾高等学校の生活



~青雲の巻~


私は成績不良ゆえ、ほうほうの体で普通部を脱走(卒業)し、慶応義塾高等学校に進学することに成功した。

 (※普通部、中等部とも3年生時に落第さえしなければ、全員慶応大学の付属校に進学可能だ。)
サッカーに例えれば、ぎりぎり残留争いに残ったという感じである。


 塾高は慶大日吉キャンパスに隣接している白亜の校舎で、ある教師は芸もなく「ホワイトハウス」と呼んでいた。その他、巨大な体育館、武道場、汚いが見晴らしだけは素晴らしいグリーンハウスという食、
プラネタリウムまである特別教室棟など多くの施設を広大な敷地の中に有している。


 それに比例して生徒数も膨大で私が在学した当時は45名のクラスでA組~O組まで存在した。普通部時代は殆どの生徒の顔と名前が一致したが、ここまで多いと私の2ビットしかない記憶容量では無理である。もちろんのこと、塾高から入ってくる生徒(通称:外部生)が多く、彼らの頭のよさは神の域に達していると当時は思った。だが、普通部時代同様、この勉強の出来る外部生達も次第にエスカレータ方式の毒牙にかかることになる。(もちろん、全員ではない。)


 1年生の時、私はA組に振り分けられた。普通部出身、中等部出身、外部出身と混ざっているが勉強の出来・不出来以外はそう変わりなかったと思う。もちろん一番勉強が出来るのが外部、次は普通部、どんけつは中等部であった。これは私のクラスだけかもしれないが、中等部は男女共学のため、勉強がおろそかになったのかもしれない。とにかく男子校普通部出身者は中等部生を羨ましがったものである。 

 担任は後に慶応ニューヨーク学院に赴任した英語教師、W先生であった。色黒でスクールウォーズの監督にも似た熱血ぶりで、個性豊かなA組をうまく束ねていた。


 塾高生の多くは部活に没頭する。部の数も半端でない。運動部はお約束の野球部、テニス部、ラグビー部を始めアメフト、相撲、レスリング、重量挙げ、ゴルフなどオリンピックが開けるのではないかという
ぐらい多かった。変り種では、自動車部、ヨット部などがあり、石原裕次郎を生み出す土壌が作られていた。ちなみに自動車部は略されて「シャブ」と呼ばれていた。


 私は軟式野球部に入った。当初は、ボクシング部に入部しようと、同じく拳闘好きのSという友人と見学に行った。あいにく練習が無い日だったが、部室をのぞくとまさに漫画「あしたのジョー」の泪橋状態であった。古臭いリング・サンドバッグ、だらんと張りの無いロープには幾つものグローブがつるされている 段平、ジョー、マンモス西がいつ出てきてもおかしくないくらいの様相であった。また古めかしい具志堅用高のファイティングポーズのポスターがそこらに貼ってあるのが致命的であった。我々はグローブを置き、後進に拳闘の未来を託す事を決定した。


 塾高は部によって権力が決まっており、当然野球・ラグビー・アメフトなどが抜群の権力を掌握していた。そのため、私が入部した軟式野球部は他の部から軟式ならぬ「軟弱」と呼ばれ、大いに悔しい思いを
した憶えがある。異色だったのは空手部で、放課後は毎日胴着を着て構内を走り回っていた。かなりストイックに練習していたらしく、何度も救急車が来た事は記憶に新しい。


 また、文化部も充実しており放送部、ディベート部はもちろん、茶道部、仏教部、はては奇術部なるものまであった。きっちり3年間奇術部で鍛えていれば、今頃はキャバクラのおねえちゃんたちにはモテモテ
だったやもしれぬ。


 塾高の体連は大学並みに厳しい。強い部はもちろんのこと、それ程強くない軟式野球部も毎日練習だった。しかも1年生時には練習後のグラウンド整備、用具の片付けなどもあり、学校を出るのは毎日夜8時をまわっていた。しかし、翌日は8時20分から授業がある。文武両立することは私の軟弱な精神では不可能であった。


 初夏頃から、疲れにより授業中睡眠をとる生徒がとみに目立ってきた。中には目を開けたまま眠るという力技を体得する者まで現れた。しかし、休み時間にはぱちりと目を覚まし、雑談をしたり早弁をする。全く人間というものは都合よく出来ているものである。

 また、教室の暖房器具は、古くさい蛇腹式の温水型ヒーターであった。冬は1限目の前に弁当箱を置いておくと、食べる頃にはホカホカという優れものの一面もある。ただ、体育の柔道が終わった後、ものぐさな生徒達はしとどに濡れた胴着を乾かしていた。この時ばかりは、何ともいえぬ香ばしい香りが教室を支配した。


 早弁をしても昼頃にはどうしても腹が減ってくる。その為、学食グリーンハウスは良く繁盛していた。特にモヤシラーメンの人気が高く、「おばちゃん、モヤシね!」とブルーカラーそのままの会話がそこかしこ
で聞かれた。実際舌の肥えていなかったあの時代、モヤシにたっぷりと酢をかけて食べると、非常に幸せな気分に浸れるものであった。


 私の場合、軟式野球部では「強肩・強打」の捕手を目指していた為、第2昼食の後は筋トレを行なっていた。大学の陸上トラックを臨む丘の上にトレーニング小屋があり、当時は最新であったユニバーサルという筋トレマシーンがあった。これは金属製の重りがついており、ラットプルダウン(:背筋などを鍛える)、ベンチプレス(:大胸筋などを鍛える)などが1台全てについている優れものであった。今ではすっかり老け込み、昼飯の弁当を食べると会議室で小一時間シェスタをとる私と比べると驚くほどアクティブであった。