早島 潮の旅の記録 -4ページ目

アイルランド紀行No3

平成22年1月18日(月)
 アイルランドと東京では時差が8時間あるので昨日は一日の長さが32時間あったことになる。

ダブリンのノース・スターホテルを8時15分に出発して最初の観光地グレンダロッホへ向った。同行の人々は老若男女33人で関東、中京、関西の三地区居住の混成団体である。

 現地ガイドは嶋口真理子さんという妙齢の女性である。本人の自己紹介によれば市川市の出身で日本では保険会社に勤務していたがアイルランドの魅力に取り付かれて単身アイルランドに移住し旅行会社のガイドをしながら4年を過ごしたという。

さて目的地のグレンダロッホはレンスター地方のウイックロウ州内にある集落である。(地図参照 http://www.inj.or.jp/seanachai/ireland/05counties.html)

$早島 潮の旅の記録-案内図

早島 潮の旅の記録-ウイロック州の光景

写真はウイロック州の光景

 この地方は花崗岩台地でありヒースが生える荒蕪地である。
グレンダロッホという地名には二つの湖のある渓谷という意味が籠められている。

修業のため人里離れた静謐な環境を探し求めていた聖ケビンはこの地を訪れ修業をしながらひっそり暮らしていた。498年に彼がこの地に建てた修道院は彼の人徳を慕って何千もの人々が集まる聖地となった。

$早島 潮の旅の記録
グレンダーロッホの入口


その後ヨーロッパからも学者が訪れる初期キリスト教期随一の修道院として発展した。

$早島 潮の旅の記録-修道院領域への入口
修道院領域の入口

氷河で侵食された峡谷には見事な円塔、石造りの教会、ケルト十字架などの遺跡が残っている。

$早島 潮の旅の記録-クルド十字の墓標


この遺跡で最も有名なのは、緑深い森の中に聳え立つ高さ33メートルの「ラウンドタワー」と呼ばれる円塔であろうか。

早島 潮の旅の記録-ラウンドタワー


1000年近く前に聖ケビンの修道僧により立てられたこの建造物はもともと鐘楼として設計されたとも言われ、外敵の来襲の際の避難所としての役割を果たしたようである。修道院の領域には100人程度が生活していたと考えられている。

この塔の屋根は1876年に雷によって破損し、修理されたが、その際に地元住民の一人、サム・ケネディーが塔のふちを踏んでダンスを踊った、という奇妙な伝承がある。

遺跡のある峡谷には湖が二つあり、その美しい光景を楽しみながらハイキングする人達も多い。

なおアイルランドの歴史は聖パトリックが432年に布教のためアイルランドに来たことに始まるとされているから、ここグレンダロッホはアイルランドの中では最古のキリスト教遺跡となるであろう。



アイルランドの守護聖人とされている聖パトリックについてはこのURLに詳しく説明されている。

アイルランド紀行No2

今回の旅では地図に示す如く、ダブリン⇒グレンダロッホ⇒キルケニー⇒キャッシェル⇒キラーニー⇒リムリック⇒モハーの断崖⇒バレン高原⇒ゴールウエイ⇒ダブリンと観光バスで駆け巡る。

アイルランドの基礎情報はhttp://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89によれば次のとおりである。
正式名称-アイルランドIreland。◎面積-7万0273km2。◎人口-434万人(2007)。◎首都-ダブリンDublin(50万6000人,2006)。

次のURLではアイルランドのことが簡潔で簡明に紹介されている。
http://www.discoverireland.jp/fact_ireland/index.html

アイルランド歴史年表は次のURLのものが判りやすい。
http://hanran.tripod.com/irish/record/history.html

アイルランドは原始にケルト人の国であり現在もその文化が色濃く残っている。

そもそもケルト人は何者か?
http://kotobank.jp/word/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%BA
によればケルト人は次のように説明されている。

古代ヨーロッパの中・西部に住み,ケルト語を使用した人びと。前3千年紀末―前2千年紀にケルト文化を形成。前7―前3世紀にガリア,ブリタニア,西ドイツ,北イタリア,イベリア,バルカンに移住。

そして彼等の残した芸術については次のURLの解説が判りやすい。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/kawada(06-1-30)
リンクがうまく張れないので全文を引用すると以下の如く論じられている。


ケルト文化の美術

京都産業大学文化学部 国際文化学科 川田朋美



・ケルト人とは

「ケルト人」とは、紀元前600年頃に古代ギリシア人が、西方ヨーロッパにいる異民族を「ケルトイ」と呼んだことに由来する名称。(ローマ人は「ガリア」と呼んだ)それはケルト語を話す文化集団の意味で、人種の名前ではない。「ケルト」とは言語・考古・神話・美術などを含むヨーロッパの一文化としての概念である。

ケルト人は、東は現在のチェコやルーマニア、トルコのあたりから、西はスペイン、アイルランドにいたる広大な地域に住み、山ひとつ超えれば同じ言葉を話す仲間がいると知っていても、国家を形成したことはなかった。それは、政治的社会構造に無関心だったことや、自然の中に神々を見出し、輪廻転生を信じる彼らにとって個の存在の方が大切だったのかもしれない。しかし生活していく上ではまとまる必要があり、彼らは部族としての単位で生活した。



・創り上げられたケルト人像

ヨーロッパの歴史に深く根ざしているケルトと呼ばれる人々の文化は、少なくとも今から25世紀前まで遡ることができる。「ケルト」という言葉を聞いて人がイメージするものは非常に多様だ。たとえばアイルランドの修行僧、キルト姿のスコットランド人、戦車で戦場へ駆けつける古代の勇士などを思い浮かべる人もいれば、サッカーや野球のチーム名程度の意味にしか思わない人もいるだろう。なぜケルト人のイメージが定まらないのか、その原因の一つと言えるのがロマン主義運動である。

ロマン主義運動がケルト人という民族に関心を寄せたのは、自然、未開性、神秘性といった概念に魅せられたからだ。古今のケルト人が解釈しなおされ、今日われわれが抱いているロマンチックなイメージが創り上げられた。ケルトの過去がロマンチックに創り直される傾向は、特にスコットランドで顕著に見られた。そのことを示す極めつけのものが、ガリアの伝説的詩人「オシアン」の作品と称するものである。古代のハイランド地方(スコットランド北部)の吟唱詩人の詩を英訳したとのことだったが、これは1760年代にジェームズ・マクファーソンという人物が、アイルランドの資料と彼の想像をもとに書いた手の込んだ偽作だったのだ。ロマン主義を通して、人々は創り上げられたケルト人像にすっかり騙されてしまい、そのまま大衆の心に刻み込まれたのである。



・ケルト美術の特徴

ヨーロッパ美術の源泉であるギリシア・ローマ美術は、自然主義・具象的な造形であった。これに対してケルト美術は全く逆である。自然の形態を全く無視し、移行しつつある曖昧な状態であるものを好んだ。この傾向は人間や動物を表現する場合でも、コンパスなどを使う幾何学的な構成を表現する場合でも同じだった。ケルト美術の目的は、宇宙のサイクルの根本であると考えられた、自然の様々な要素の不断の動きと変化を暗示することである。世界は常に変化にさらされているという物語がケルト美術には詰まっている。見える世界を見えるままに表そうとする描写的な方法は、ケルト人の眼にとってむしろ奇異なことだったと思われる。ギリシア・ローマとケルト、それぞれの美術が何故これほど異なるのかは勿論キリスト教、ギリシア思想などが関わってくるはずだが、それだけでは説明できない想像力の産物が、ケルト美術には表れている



・ケルト・デザイン

<渦巻模様>

『リンディスファーンの福音書』『ダロウの書』に現れているケルト渦巻模様には、「反転し捻れながら無限に連続・増殖するかたち」が一貫して守られている。日本の家紋や太鼓の装飾など、単体で表現されている「三つ巴」や、二つの勾玉を合わせた中国・朝鮮の「陰陽」二分割の模様とは違い、先の見えない無限の増殖の構造を持っている。

これはケルト人の時間感覚、宇宙観を表しているようにも見える。二重三重に絡み合う組紐模様は、昼と夜、夏と冬、光と闇、男と女、人間と動物、こうした対立する2つの存在がひとつの領域に溶け合うことこそ世界の運動につながる、というケルト人の世界観。

<動物模様>

ギリシア・ローマ人は人間の姿かたちを神の像のモデルとする「神人同型」の理念を持っていた。しかし彼らの故郷から遠く離れた北の島国では、「猪」の顔や「馬」の頭が宗教儀礼の祭具にあしらわれていた。神はむしろ「動物」のかたちをしている方が多い。

そのような宗教的美術と思われるものがブリテン島の石灰質の大地に浮かび上がっている。最も有名なのが、イングランドのオクスフォードシャー、アッフィングトンの石灰層に描かれた巨大な「馬」である。これは1世紀に造形されたものと思われる。馬は豊穣や戦士の力のシンボル。戦車をひいたり、騎士が乗ったりして利用されたりする。そういう意味で世界中の貴族や戦士たちに神聖視されている。馬を守護する女神エポナがケルト文化圏全域で崇拝されていたのも、馬が高貴な身分の証明でもあったから、このモチーフはケルトの馬崇拝の影響を受けた「神像」であると考えられている。主として丘の斜面に表されたものが多いので「丘陵像(ヒル・フィギュア)」と呼ばれる。



・「島のケルト」の美術

ローマ帝国による大陸支配が拡大していくにつれ、大陸にいるケルトは極めて不安定な状態に陥り、その領土は著しく縮小していった。加えてウェールズとスコットランド北部、アイルランドを除いたブリテン諸島がローマの支配下に入り、ケルト的本質がずっと維持され続けたアイルランドでは「島のケルト」の美術が確立されていった。



島のケルト三大美術

Ⅰ)石彫美術

『ケルト・ハイ・クロス(Celtic High Cross)』は、ケルト修道院文化のシンボルである円環と十字架を組み合わせた石造りの十字架。「円環」は、初期キリスト教時代に広まったギリシア十字を円で囲んだデザインからきているものか、日輪をかたどったものか起源は明らかではない。この十字架が野外で風雨に晒されているのは、古代のケルトには大地から生えたような「石」そのものへの信仰があったためである。岩山の信仰が聖ミカエルの降臨する場所として伝えられている。

「島のケルト」の地にはもともと先史の巨石モニュメントであるストーン・サークルなどがあった。ケルトの人々はそれらの圧倒的な存在感と神聖さを掴み取り、自らの文化の中に守り育てていったのだと思われる。

Ⅱ)金工美術

ケルトの装飾美術の様式は、古代ケルトの金工美術の技法に支えられてきた。キリスト教時代から800年後の中世アイルランド・キリスト教時代には、金工の傑作である『タラ・ブローチ』と『アーダーの聖杯』で金工美術の黄金時代を招来させた。

これによって、金工美術がキリスト教聖具としての聖杯だけでなく、貴族の権威を示す装身具にも金銀の模様が表現されていて、聖と俗両方に金工師の装飾の技が発揮されていたことが分かる。タラ・ブローチには渦巻模様、組紐模様、動物模様が見られ、また金の透かし細工の入った銀メッキ製で、琥珀や多色ガラスの宝石が多数ちりばめられている。

Ⅲ)装飾写本美術

ベーダの『イギリス教会史』には、ローマからイギリス・ケントにやって来た聖アウグスチヌス一行は、カンタベリーの町を十字架と「キリストの姿(イメージ)を描いた絵」を掲げて練り歩いた、と書かれている。地中海伝統の「描写的絵画」は、自然主義的な人物像や情景で構成されている具象美術である。このスタイルの美術こそケルトの写本美術から最も遠いもの。ケルト十字架や金工美術にみたように、ケルトの伝統とは北方ヨーロッパの「抽象」志向である。今日伝えられているケルト系装飾写本は、東はモスクワ、西はアイルランドまで、各地の国立図書館などに保存されている。6世紀から9世紀の間に制作され、ケルト美術の特徴を表現の中に含んでいるか、影響関係の痕跡がある一群は「島(インスラー)の写本」とも呼ばれる。現存する限りにおいて、紀元前400~800年の間に制作された福音書写本の半数が、ケルト様式の要素を含んでいる。このことからみても、ヨーロッパの写本芸術にケルト修道院の主導性がわかる。



・『ダロウの書』

現存するケルト最古の福音書写本。ローマ教会に対抗するケルト教会の勢いは、この本が製作されたころ最大のものとなっていた。教皇グレゴリウスはアングロ=サクソン人のキリスト教改宗にあたって、「図像による教化」をうたったが、『ダロウの書』の美術はローマ教会とは対極的で絵は一枚もない。

・『リンディスファーン福音書』

『ダロウの書』のケルト装飾スタイルと、ローマ教会の影響である図像スタイルの両方が見られる。それは、ケルトとローマ教会圏の境目であるノーサンブリアという地域の事情を反映するものとして見られる。

・『ケルズの書』

「天使の御業」とたたえられ、ケルト美術が貫いてきた繊細な模様を更に発展させていて、極彩色の渦巻と組紐と動物にあふれている。それに加えて、国外から伝わった新しい表現を共存させる試みが見られる。『ケルズの書』のは挿絵が3枚入っている。



・おわりに

今回ケルト人について調べてみて、わかったことの一つにケルトは無文字文化だったということだ。独自のアルファベットを持たず、鍛えられた記憶力によって法や伝説や部族の教えが保持されてきた彼らには、文字を書き記すという行為は必要なかったのである。

まだまだ謎の残されたケルト文化の中で、今回調べた美術は文字を書かなかったケルト人にとって、自らの存在を後世へと伝える最大の手段だったのかもしれない。今後はケルトを始め、無文字文化の中で生きてきた民族についても詳しく調べていきたい。



参考文献

鶴岡真弓 『ケルト美術への招待』 ちくま新書

鶴岡真弓・松村一男 『図説ケルトの歴史 文化・美術・神話をよむ』 河出書房新社

中央大学人文科学研究所編 『ケルト 伝統と民族の想像力』 中央大学出版部

サイモン・ジェームズ 『図説ケルト』 東京書籍

アイルランド紀行No1

時期: 2010年01月17日~01月18日


アイルランドという名前を耳にしたとき先ず思い出したのは「ラフカディオ・ハーン」、小学唱歌「庭の千草」、「ジョン・F・ケネディ」の先祖のことである。イギリスと隣接した国でありながらその実情はあまり知らない。
 旅に出る前に先ず知っていることだけでも深化させようと試みた。

ラフカディオハーン
はアイルランド出身の作家・小泉八雲としてその作品は沢山読んでいるが日本へ来るまでの経歴は詳しく知らなかった。ウイキペディアで来日前の経歴を調べてみると以下の如く記されていて既に波乱万丈の前半生であることに驚いた。

年譜1850年6月27日 - 誕生。父はチャールス・ブッシュ・ハーン、母はローザ・カシマティ。生地ギリシャ・レフカダ島からラフカディオというミドルネームを付けられた。
o 父はグレートブリテンおよびアイルランド連合王国(現・アイルランド)出身でプロテスタント・アングロ・アイリッシュである。軍医のイギリス軍少佐としてギリシャ王国・イオニア群島レフカダ島(Lefkada)の町リュカディアに駐在中、地元のキティラ島の裕福なギリシャ人名士の娘であるローザ・カシマティと結婚。
* 1852年 - 2歳のとき父母は父の家があるダブリンに移住する。
* 1854年 - 父が西インドに赴任し一人となった母は精神を病みギリシャのセリゴ島へ帰国。4歳のハーンはサラ・ブレナン大叔母(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化のなかで育てられた。
* 1856年 - 6歳のとき父母は離婚し父は再婚した。
* 1863年 - 13歳アショウ・カレッジに入学。
* 1863年 - フランスの神学校に行く、帰国しセント・カスバーツ校入学。
* 1865年 - 16歳のとき学校で遊んでいる最中に左目に怪我をし視力がなくなる(以後左を向いた写真ポーズをとる)。
* 1866年 - 17歳のとき父は西インドから帰国途中に病気で死亡、大叔母は破産した。
* 1867年 - セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
* 1869年 - 20歳のときにリバプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
* 1872年 - トレード・リスト紙の副主筆。
* 1874年 - インクワイアラー社に入社。
* 1875年 - マティ・フォリーと結婚、当時違法だった黒人との結婚だった為にインクワイアラー社を退社。
* 1876年 - インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社。
* 1877年 - 離婚、シンシナティの公害による目への悪影響を避け、ニューオーリンズへ行く。
* 1879年 - アイテム社の編集助手。食堂「不景気屋」を経営するも失敗。
* 1882年 - アイテム社退社、タイムズ・デモクラット社の文芸部長になる。この時期の彼の主な記事はニューオリンズのクレオール文化、ブードゥー教など。
* 1884年 - ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で大日本帝国、外務省の服部一三に会う。
* 1887年~1889年 - フランス領西インド諸島マルティニーク島に旅行。
* 1889年 - ニューヨークに帰る。
* 1890年 - ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り4月4日横浜港に着く。7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられ、8月30日に松江到着。
* 1891年1月 - 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉節子(1868年2月4日-1932年2月18日)と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)。その年の11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師。長男・一雄誕生。
* 1894年 - 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
* 1896年 - 東京帝国大学文科の英文学講師、帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に東京都新宿区富久町にへ転居する(1902年の春まで在住)。
* 1897年 - 次男・巌誕生。
* 1899年 - 三男・清誕生。
* 1902年3月19日 - 東京都新宿区西大久保の家に転居する。
* 1903年 - 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)、長女・寿々子誕生。
* 1904年3月 - 早稲田大学の講師を勤め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。戒名は正覚院殿浄華八雲居士。墓は東京の雑司ヶ谷墓地。
* 1915年 - 贈従四位。


 庭の千草は好きな曲であるが歌詞を詳しく思い出せないのでウイキペディアで検索して探し出した。歌詞を口ずさんで少年時を追憶するのも旅の余禄である。

庭の千草
里見義
 一、
   庭の千草も、虫の音も、
   かれてさびしく、なりにけり。
   ああ白菊、ああ白菊。
   ひとりおくれて、さきにけり
 二、
   露にたわむや、菊の花。
   霜におごるや、菊の花。
   ああ あわれあわれ、ああ白菊。
   人のみさおも、かくてこそ。

 ジョン・F・ケネディは三代かけて生み出された大統領であると巷間に言われているがこれもウイキペディアで調べてみてなるほどと合点した。

パトリック・J・ケネディ=ジョン・F・ケネディの祖父


 SK0984便は成田空港12時45分離陸、飛行実時間11時間30分程でコペンハーゲン空港へ16時55分着、慌しくSK2537便へ乗り換え約2時間20分の飛行後、ダブリン空港へ18時10分着陸。迎えのバスに乗りノーススターホテルへ投宿。

スカジナビア航空sk0984$早島 潮の旅の記録-スカンジナビア航空sk0984


 シベリア上空にさしかかった時窓をあけて覗くと、深夜の筈なのに空は明るい。白夜である。翼の上に三日月が輝いていた。

$早島 潮の旅の記録-シベリア上空の月

 ・三日月が主翼にかかる白夜かな 

 コペンハーゲン空港の乗り継ぎは時間が短く免税店で酒を仕入れる暇もなかったが長時間待機させられる所在なさを思えば優れたプランである。

 航空業界も生存競争にさらされてコスト削減を迫られているのか乗り継いだsk2537便2時間20分の飛行中水一杯の機内サービスもなかった。すべて有料なのである。