早島 潮の旅の記録

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リビエイラ海岸と北イタリアの小さな町めぐりNo2・・・リビエイラ海岸

$早島 潮の旅の記録リビエイラ海岸

平成22年11月17日(火)・
ホテルを8時23分にバスでスタートしてサンカルロ広場まで行きここで下車してカステッロ広場まで徒歩で赴いた。

・カステッロ広場一帯にはサボイア家の重要な建物が密集している。入場して見学した所はサボイア家の王宮(Palazzo Reale)とドウモ(Duoumo)である。

$早島 潮の旅の記録-サボイ家の王宮サボイ家の王宮

$早島 潮の旅の記録-ドウモドウモ

・ トリノの歴史を簡単に振り返ってみると、サルディーニヤ王国が関わったイタリアの統一戦争は第一次(1848~49)第二次(1859~60)と二度にわたり戦われたがその内容は複雑である。トリノの歴史のなかでは1861年サルディーニア王国がベネチヤ地方、ナポリ王国、教会領を除いてイタリア全土を統一しトリノで開かれた第一回イタリア議会でイタリア国王の称号を受けトリノに都を置いたことが重要である。時の国王ビットリオ・エマヌエーレ2世は宰相カバールを指揮してイタリア統一を成し遂げ善政を敷き「国父」「誠実王」と称えられ。

・入場して見学した王宮(Palazzo Reale)ではたまたまビットリオ・エマヌエーレ2世展が開催されており同王ゆかりの品々が展示されていた。撮影が禁止されていたので部屋の様子、豪華な室内装飾や調度品の数々、絵画、玉座を写真で示すことができないのが残念である。

$早島 潮の旅の記録ビットリオ・エマヌエーレ2世

・王宮に並んでいるドウモ(Duoumo)には、キリストが処刑された後その身体を包んだ聖骸布(Santa Sindone)が豪華な装飾の施された棺のなかに保存されているという。この聖骸布に受刑後の傷口から滲みでて付着した血痕の状況をスライド写真で解説していた。科学的な鑑定調査の結果によれば血痕は1500年ほど前のものでありキリストのものではないらしいがキリスト教徒の間では伝承通り聖なるものとして崇められている。

・一週間ほどトリノは雨続きであったらしいが、この日は晴天に恵まれガイドからはラッキーだといわれた。

$早島 潮の旅の記録双子教会


・自由時間にトリノの町中を暫く散策したのちbrekというレストランでセルフサービス式の昼食を摂った。おおかたのレストランが正午からのオープンであるのにここだけは11時半からオープンしていて便利であった。ビュッフェ形式で陳列されている料理を選んでトレイにとり会計のところで支払いをするのである。大学の生協の食堂に似通った給食方式であるから言葉が分からなくても安心して喫食することができた。野菜サラダ、ハム、チーズ、パン、バター、ジュースを選んだら10ユーロ25セントであった。

・昼食後13時半にトリノを出発した。バスで高速道路を疾駆して200キロを小休止も入れ、サンタ・マルゲリータ・リグレまで3時間半の道程である。

・途中小休止した高速道路の出口近くにはガソリンスタンドとカフェ兼用の売店があり買い物をしてここでトイレを拝借するのである。ヨーロッパの教会にはトイレが設置されていないし、町中にも無料の公衆便所がないのが特徴である。排泄管理に苦労するのがヨーロッパの旅であるといえよう。古い町ほどこのことを痛感する。

・イタリアの高速道路運行は車種別に制限速度が設定されており且つ日曜日にはトラックの運行が禁止されているので事故が少ないのが特徴である。休日には家族連れで遠出をして生活を楽しめるようにとの道路政策がとられているのである。

・ジェノバからラ・スピツアまでの約110キロメートルの海岸線を東リビィエラといい、ひなびた漁村や美しい砂浜が残っている。

・東リビィエラでもっとも手軽に面白く楽しめるリゾートがサンタ・マグレリ-テ・リグレであるといわれている。町中を散策し教会へ入ってみた。

・サンタ・マグレリーテ・リグレを後にして本日の宿泊地ラ・スペツィアへ向かった。

・80キロメートルを1時間45分で走行し夕闇迫る頃NH JOLLY LA SPEZIAに到着し投宿した。

$早島 潮の旅の記録

$早島 潮の旅の記録

リビエラ海岸と北イタリアの小さな町めぐりNo1 トリノ

平成22年11月16日(火)

 本日よりクラブツーリズムの企画した「花のリビエラ海岸と北イタリアの小さな町めぐり8日間」に参加して旅の畏友Sさんと一緒に北イタリア旅行である。

$早島 潮の旅の記録-地図旅程地図


$早島 潮の旅の記録-旅程旅程表




 予定よりも早く京浜東北線鶴見駅5時22分発の上りに乗車。上野駅で下車し公園口より京成上野駅まで歩く。
駅はアメ屋横丁商店街の入り口近くであった。何時も利用する成田エクスプレスがこの時間帯には運行されていないので京成スカイライナーを利用したのだが、京成電車を利用するのは初めてなので二つの間違いをしでかした。

 一つは京浜東北線からの乗り換えは日暮里駅のほうが駅構内の移動だけですむのに上野駅で下車したため一旦駅構外へでなければならなかったこと。
 二つ目の失敗は終点駅まで乗っていればよいものを空港第二駅で下車してしまい第一ターミナルへの移動はバスによらなければならなかったこと。

 このバスの運行回数が早朝の時間帯では少なく不便なため予定集合時間に遅れてしまった。構内移動には構内電車を利用すればよいとの思い込みが災いとなった。携帯電話で添乗員の相原氏に連絡をとり指定集合時間には遅刻の旨を申告した。

 バスで第二から第一へ移動後、四階出発ロビーのABC宅配事務所で託送荷物を受け取り集合場所へ急いだ。
Gカウンターの21番窓口で搭乗券を受け取り、チェックインへ急ぐとセキュリテイーチェックのための行列が出来ており列の最後尾に並んでローマ経由ミラノまでの荷物託送手続きが終了した。

 出国審査終了後免税品はなにも求めず搭乗した。 機内携行荷物に酒を持っていると国内便へ乗り継ぎの時液体類は安全のため没収されるからである。テロリスト達のために免税品の酒を楽しむという善良な外国旅行者達のささやかな愉しみが奪われるのである。 

 成田空港9時20分発アリタリア航空az0783便は定刻に離陸し、ローマまで12時間52分の飛行である。

 機内で三食支給された。夕食にワインを二杯貰って飲み終わり暫くすると発汗が激しくなり眠気がして気分も悪くなってきた。おそらく飛行機酔いであろうか、初めての体験である。いまだ嘗て体験したことのない気持ちであった。不安な気持ちで10分ほど過し一寝入りして目覚めると飛行機酔いは治っていた。気圧の変化に即順応できない老化体力のことを実感させられた。

 長い道中、機内で山村美紗著の「マラッカの海に消えた」を読了した。        

 東京とローマ間の時差は8時間。実飛行時間12時間52分でローマのフェミチーノ空港(正式にはレオナルド・ダ・ビンチ空港)へは14時33分に着地した。


ローマので乗り継いだフェミチーノ空港(レオナルド・ダ・ビンチ空港が正式名)

$早島 潮の旅の記録-ローマの空港



 ローマで国内線に乗り継ぎ17時23分にテイクオフしてミラノのマルペンサ空港へは18時13分到着。

$早島 潮の旅の記録-ミラノの空港ミラノのマルペンサ空港


託送荷物をピックアップ後、迎えのバスで約2時間移動しトリノのアートホテル・オリンピックへ投宿した。

$早島 潮の旅の記録アートホテル・オリンピック

 託送荷物に詰めておいたウイスキーを堪能しながら成田で買い求めた稲荷弁当を夕食に食べた。時差が8時間あるので36時間もあった初日はやっと終わった。                              


$早島 潮の旅の記録トリノ市街

$早島 潮の旅の記録-トリノのホテルから見たトリノ市街トリノ市街

アイルランド紀行No9 ダブリンでケルズの書を見た

平成22年1月22日(

朝8時15分にフランネリーズホテルを出て一路ダブリンを目指す長時間のバスドライブである。所要時間約3時間213km。
途中キルケガンウイスキー工場で小休止してからダブリンの市内に入りポーターハウスで昼食を摂った。メインディッシュはベーコンとキャベツであったが肉厚のベーコンはいかにも量が多い。食後、聖パトリック大聖堂St Patrick's Cathedral、トレニティカレッジ、国立博物館を見学した。

以下は首記したURLから引用した文章である。
http://www.globe.co.jp/dublinguide/dublinguidebook/dublin/g-dublin7.html

聖パトリック大聖堂は「ガリバー旅行記」の作者ジョナサン・スウィフトが1713年から1745年まで大主教を勤めていた。(中略)
この場所に最初に教会が建てられたのは450年ころ、聖パトリックがキリスト教へ改宗する人々に洗礼を行なっていた泉の横に木造の礼拝堂があった。川に挟まれた場所にあり‘島の聖パトリック(St Patrick's in Insula)’と呼ばれ、ケルト的なキリスト教の礼拝が行なわれていた。1172年のアングロノルマンのアイルランドに進出によって、最初のアングロノルマン人の大司教となったジョン・カミン(John Cumin/Comyn)はクライストチャーチの建て替えの後、修道院の規範や英国の直接的な影響から離れ、自らの教会を設立するため、管轄外の地域にあった木造の聖パトリックの礼拝堂を引き継ぎ、1192年に石の教会に建て替えた。さらに1212年に後を継いだヘンリー・オブ・ロンドン大司教によって1225年ごろからおよそ30年かけてほぼ現在の形のゴシックスタイルの教会が完成した。教会である一方、アイルランドで最初の大学(1320ー1520)としても利用された。
16世紀のヘンリー8世の宗教改革で教会の財産は没収、聖書は英国国教会の祈祷書(Book of Common Player)に取って変わった。
1544年に身廊の屋根が崩壊、建物は教会以外の目的にも使用され、およそ300年の間、ところどころを修復しながら状態の悪いまま放置された。やがて1864年に、ギネス家の一人ベンジャミン・ギネスが資金を提供し老朽化した大聖堂の大規模な修復が行われ、クライストチャーチの修復に先立って大聖堂は再建された。長さ91メートル、ミノットタワーは高さ43メートル、アイルランドで最も大きい教会。

トリニティカレッジとケルズの書

http://www.easytobook.com/jp/dublin-hotels/dublin/universities/trinity-college-in-dublin/

以下は引用である。
ダブリン近郊のトリニティカレッジ(The College of the Holy and Undivided Trinity of Queen Elizabeth )は1592年にエリザベス1世によって設立され、アイルランド最古の大学であるダブリン大学に属する唯一のカレッジである。ダブリンのカレッジグリーンに位置し、旧アイルランド議会(現在アイルランド銀行の支店)の向かいにある。47エーカーのキャンパスには、鐘楼、チャペル、ダイニングホールなど建築上また歴史上重要な建造物が数多くある。高等教育機関として国際的に高い評価を受け、年間にここを訪れる人も数多い。キャンパス内には、オスカー・ワイルドセンター、サミュエル・ベケット劇場、ダグラス・ハイドギャラリーなどがある。またケルズの書を一目見ようと、毎年50万人以上が訪れることでも有名である。ケルズの書は西暦800年ごろに書かれ、豪華な装飾が施されたラテン語の福音書であり、Vulgate エディションを元にしている。トリニティカレッジを訪れたら、有名な徒歩ツアーに参加したい。学生が案内するこのツアーは、キャンパスをまわりながら、カレッジの歴史や建築物、面白い逸話、また有名な卒業生などについての興味深い話を聞かせてくれる。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%9B%B8
以下引用

ケルズの書(ケルズの書、The Book of Kells)は、8世紀に制作された聖書の手写本。
「ダロウの書」、「リンディスファーンの福音書」とともに三大ケルト装飾写本のひとつとされ、アイルランドの国宝となっており、世界で最も美しい本とも呼ばれる。

縦33cm、横24cm。豪華なケルト文様による装飾が施された典礼用の福音書で、四福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書)が収められている。

聖コルンバの偉業を称えるために、スコットランド、アイオナ島のアイオナ修道院で制作が着手され、その後アイルランドのケルズ修道院で完成された。現在は、ダブリン大学のトリニティー・カレッジ博物館に所蔵されている。
http://www.shajisitu.or.tv/c2.htm


http://www.easytobook.com/jp/dublin-hotels/dublin/museums/national-museum-of-ireland-collins-barracks-dublin/

以下引用。
アイルランド国立博物館は、ダブリン市内のCollins Barracks にあり、アイルランドでも最高の文化機関。博物館は、アイルランドの芸術、物質的文化、自然史に重点をおいている。ここは長年に渡って、様々な年代の人々に生涯学習の機会を提供したり、アイルランドの豊かな遺産を学ぶ機会を与えてきた。サービスにはガイド付ツアー、公開レクチャー、週末イベント、ワークショップ、実演、教育リソース室、情報およびリソースサービスなどがある。アイルランド国立博物館のCollins Barracks 館には衣装、硬貨、家具などの素晴らしい作品を展示している。また特別展示や、レクチャーシリーズ、サマーアウトドアプログラムなども行っている。新しいPhase 2展示ギャラリーでは、民族誌的なコレクションや、地質学やアイルランドの歴史に関する展示を行っている。博物館の展示を全て見てまわるには、半日かかる。午前中に展示を見た後は、博物館のカフェでランチを取ることができる。
チャプターハウス/参事会室の扉(Chapterhouse Door) 
もともとは南翼廊のチャプターハウスにあった木製の扉。
1492年に、長く敵対関係にあったキルデア伯爵とオーモンド伯爵がこの教会で出会った時、オーモンド伯爵はチャプターハウスに身を隠した。するとキルデア伯爵は、和解を申し出、ドアに穴をあけ、腕を差し込みオーモンド伯爵に握手を求めた。オーモンド伯爵はそれに応じ2人は和解することができた。扉は「和解の扉」と呼ばれ、このエピソードから"chancing your arm"(いちかばちかやってみる)という英語のフレーズができたと言われている。
引用終わり

ダブリン市内観光の自由時間ではHさんと共に国立美術館へ行った。目当てはカルバッチョのキリストの逮捕とフェルメールの手紙を書く婦人であったが残念ながらカルバッチョは展示されていなかった。絵葉書だけはショップで購入することができた。フェルメールの絵葉書はショップでは売り切れで求めることができなかった。

自由時間が終わり指定された集合場所へ同行メンバーは集まってきたが一組の夫婦が40分待っても現れないというトラブルがあった。この夫婦は集合場所の目印を失念してしまいタクシーを拾って先にホテルへ辿りついたことが判明してことなきを得たがはた迷惑な出来事であった。

帰路に成田空港上空で遥か遠くに富士山を見ることが出来た。富士山を見ながら何の脈絡もなくガイドの嶋口嬢が言っていた言葉を思い出した。アイルランド人の特徴は酒好きであること、陽気であること、親切であること。

$早島 潮の旅の記録-キルケガン醸造所キルケガン醸造所

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