もう一つのクリントンの“遺産”


そのビル・クリントンが残した遺産は、工場のメキシコなどの移転で、空洞化した中西部の激戦州の風景だった。だが、クリントンの「遺産」は、そればかりではなかった。クリントンの1996年の激戦州での再選「戦略」がアメリカ外交にも大きな「遺産」を残した。これが、もう一つのクリントンの遺産だ。

1989年のベルリンの壁の崩壊を持って冷戦が終わった。そして91年にはアメリカのライバルだったソ連が崩壊した。さらに93年には、駐屯していた最後のロシア軍がポーランドから撤退した。ソ連の脅威に備えて結成されたNATO(北大西洋条約機構)というアメリカを中心とする軍事同盟は、ある意味で、その存在理由を失った。

ところがNATOは解散されることはなかった。逆に、この軍事同盟は拡大し、その守備範囲を広げた。その背景にあったのは、ロシアの脅威が戻ってきた場合に備えて、NATOに加盟しておきたいという東欧諸国の強い思いだった。

まず1990年に、旧東ドイツが崩壊し、旧西ドイツに併合される形でドイツが統一された。この旧東ドイツの領域へとNATOという軍事同盟の守備範囲が広がった。旧西ドイツは1955年以来のNATO加盟国だったので、それが統一ドイツになり、そのドイツ全体がNATOの守備範囲に入ったわけだ。ここまでは、国家の拡大に呼応した「自然な形」での拡大とも言えた。

しかし、その後は東ヨーロッパ諸国を新たな加盟国としてNATOは拡大してゆく。東欧諸国がNATOへの加盟を求めたのは、その歴史的経験の反映である。長年ロシア帝国、そしてソ連の支配下にあった国々が、自らの安全保障をアメリカを中心とするNATOに委ねようとした。

しかしNATOの拡大はロシアを刺激する。外交的に、それがアメリカの国益かどうかに関しては議論があった。なにせNATO加盟を許すということは、その国の防衛に関してアメリカが責任を持つということである。NATOは、アメリカ兵が血を流して守るという約束である。そうした約束を東欧諸国に与えるのが、本当にアメリカの国益だろうか。懐疑論が強かった。ジョージ・ケナンやヘンリー・キッシンジャーなどの国際政治「業界」の大物たちは、拡大に反対していた。クリントン政権内部でも第一期目の国務長官のウォーレン・クリストファーは、乗り気ではなかった。そして国務副長官のストローブ・タルボットも反対だった。タルボットはロシアの専門家だった。またクリントンがイギリスのオックスフォード大学に留学した時期の同級生だった。それだけにホワイトハウスへの影響力が強かった。

2024年11月8日(金)記
トランプ次期大統領によるロシア・ウクライナ和平調停の報道に触れながら


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