今年も広島と長崎の日がめぐってきます。
先日、ピースボートの船上で畠山澄子さんと、「核兵器との共存 その先へ」という講座を行いました。
「核兵器との共存」というテレビ番組を見ていただいた後に対談を行いました。
 高橋が放送大学の『世界の中の日本外交』というテレビ・シリーズのために制作に関与した番組です。
ここにアップするのは、対談のために用意した原稿に手を入れたものです。
講座では、時間の関係から語れなかった内容も含まれています。

 

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畠山澄子

はじめに

本クルーズでは高橋和夫さんにほぼ一周していただきながら、訪れる地域や時事問題と絡めた非常に有意義な講座を展開していただきました。今日の講座のテーマは核兵器。まずは45分の映像をご覧いただき、その後、私、ピースボートスタッフの畠山澄子が聞き手となり、20分強、お話をお聞きします。核兵器をめぐる今を見つめながら、核兵器のみならずより広く戦争や平和といったテーマに話を広げ、クルーズの終わりが近づく中で私たちが考えるべきことを整理するお手伝いをしていただけたらと思っています。

 

映像「核兵器との共存」[45分](放送大学・2020年)

-         抑止

-         問題点

-         核兵器廃絶の努力

 

 

畠山澄子

どのような経緯で、「世界の中の日本外交」という授業の一環でこのトピックを扱おうと思ったのでしょうか。特に、核兵器との共存という中で核兵器廃絶の努力に触れられたのでしょうか?

 

高橋和夫

もちろん核問題が重要だからです。しかし、それ以上に、この問題には、個人的な思い入れもあります。私は北九州市の小倉(こくら)の生まれです。この都市は、実は原爆の投下目標でした。しかしながら、1945年8月9日の午前、たまたま小倉の上空は曇っていました。視界が悪かったのです。そこで原爆を積んだアメリカの爆撃機は長崎に向かいました。それゆえ長崎の悲劇があって、私の命があります。

 

また私自身もささやかながら被爆者の証言のお手伝いをした経験があります。ひとつは、1980年だったでしょうか。アメリカのニューヨークやイタリアのベニスで開催された「広島の子供たち」、だったでしょうか正確なタイトルは失念しましたが、という写真展の英語のナレーションの朗読をしました。これは被爆者たちが、原爆投下の瞬間に何をしていたかを写真とともに振り返るという展示でした。

 

ナレーションの英語があまりにうまくては日本人らしくない。あまりに下手では通じないというのです。たまたま友人が、その展示を担当していて、私の適度に下手な英語を「評価」してくれたのです。

 

またピースボートでロンドンに行った際に被爆者の天野文子(あまのふみこ)さんの証言の通訳をイギリス議会の建物の中で行いました。(4月にお亡くなりになったとうかがいました。優しい言葉で厳しい現実に立ち向かった方でした。合掌)

 

畠山澄子 

なるほど、個人的な思い入れがあったのですね。番組については、後ほど再びおうかがいしたいと思います。

 

さて、この講義が収録されたのは2020年で、いまは2024年。この4年間で物事が大きく動いてきたと思います。

 

ひとつは「核兵器廃絶の努力」について、核兵器禁止条約(TPNW)が大きく進んだことです。2020年10月にホンジュラスが50か国目の批准国となり、2021年1月に核兵器禁止条約が発効しました。TPNWは発効後1年以内に締約国会議(Meeting of State Parties)を開くということになっていましたから、2022年の6月に1回目の締約国会議がウィーンで、2023年の11月には2回目の締約国会議がメキシコ主催のもとニューヨークで開かれました。1回目の締約国会議ですでに「核兵器のない世界への誓約」「ウィーン行動計画」というふたつの力強く具体的な成果文書が出ています。映像の中で和夫さんは「MAD[1]とICAN[2]の対立」というような表現をされていましたが、「MADからのさらなる決別」という感じがします。さらに第2回目の締約国会議では、「核兵器禁止条約に基づく諸国の安全保障上の懸念に関する協議プロセス」を確立するという決定がなされました。協議のテーマは、①核兵器の存在と核抑止力の概念から生じる、条約に含まれている正当な安全保障上の懸念、脅威、リスク認識をより適切・明確に表現することと、②核兵器の人道上の影響・リスクに関する新たな科学的証拠と核抑止に内在するリスク・前提とを併記することで、核抑止に基づく安全保障パラダイムに異議申し立てを行うことの2つです。根底にあるのは「安全保障を損なう核」(nuclear insecurity)、つまり、核が安全保障につながっているという考え方ではなく、核の存在そのものが安全保障を損なう原因になっているという考え方です。

 

高橋和夫さん、ここで問題にされている核抑止とは、そもそも、どういう歴史的な背景から出てきたのでしょうか?

 

[1]Mutual Assured Destruction(相互確証破壊):核兵器による攻撃を受けても、攻撃を受けた国に十分な核戦力が生き残り、攻撃を開始した国に耐えられないほどの報復を行えれば、攻撃を開始しようという動機がなくなる。こうした攻撃を受けても、それでも相手を必ず破壊する能力を対立する両国が持てば、相互に相手を核兵器で攻撃する動機が減少し、関係は安定する。冷戦期のアメリカとソ連の関係を規定していた核抑止の根幹の考え方である。英語の頭文字をとって略してMADと呼ばれる。もちろん、MADには「気が狂った」という意味がある。

 

[2] International Campaign to Abolish Nuclear Weapons(核兵器廃絶国際キャンペーン):核兵器を禁止し廃絶するために活動する世界のNGO(非政府組織)の連合体です。スイスのジュネーブに国際事務局があり、2017年にノーベル平和賞を受賞しました。詳しくは、https://peaceboat.org/21213.html

 

高橋和夫

この核抑止が冷戦期の米ソ関係を規定していました。その起源について紹介させてください。

 

ソ連という国は第二次世界大戦の開戦時の1939年にはドイツの同盟国でした。ところが、そのドイツが1941年6月に裏切ってソ連を奇襲しました。ソ連は大きな損害を受けます。国土のヨーロッパ部分の大半がドイツ軍に占領されるような苦戦でした。

 

また、その年の12月に日本海軍がハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃します。そしてフィリピンのアメリカ空軍基地を爆撃しました。アメリカはハワイでもフィリピンでも多大の損害を受けました。アメリカとソ連の両国は、このように奇襲攻撃による大きな被害を受けました。これが、心理学の言葉でいえばトラウマになっているのです。

 

両国とも、こうした苦い経験を踏まえ、2度と奇襲攻撃を受けたくないとの思いから、奇襲攻撃を受けないように、そして受けても戦力が生き残るようにと軍備を整えたわけです。われわれが訪問したアラスカは実はアメリカの対ソ防空網の最前線でした。

 

>次回に続く