戦うヒズボラ

 

さて議論をサファヴィー朝の時代のイランから、1980年代のレバノンに戻そう。イラン革命防衛隊の指導を得て結成されたヒズボラは、死を恐れない果敢な攻撃でイスラエル軍を苦しめた。車両に、爆薬を満載して近づいて運転手が自爆して敵を巻き添えにする戦術を使い始めたのは、ヒズボラである。これはイスラエルから見ればテロ攻撃であり、ヒズボラによれば殉教攻撃だ。

 

その最初の例が1982年11月に起きた。ヒズボラの一員が、レバノン南部のイスラエル軍本部に爆薬を満載した車両を運転して近づき、自爆した。75名のイスラエル将兵が死亡した。筆者が知る限り、イスラム教徒による歴史上最初の車両を使った自爆攻撃である。

 

そして翌1983年4月ベイルートのアメリカ大使館が同じように爆薬を満載したトラックを使った自爆攻撃を受け63名が死亡した。さらに同年秋にはアメリカ軍の海兵隊宿舎とフランス軍宿舎が爆破された。同年10月23日の日曜日の早朝だった。まずアメリカ軍の海兵隊の宿舎がトラックによる自爆攻撃を受け241名のアメリカ軍兵士が死亡した。これほど多数の海兵隊員が一日で死亡するのは第二次世界大戦中の硫黄島での戦闘以来だった。また、その何分か後に同じような攻撃を受けたフランス軍宿舎の犠牲者は58名だった。

 

やがて20世紀末から、オサマ・ビンラーディンの率いた国際テロ組織アルカーイダが、2001年9月に、この同時多発の自爆攻撃という手法を飛行機を使ってアメリカで実行した。IS(「イスラム国」)もまた、この自爆攻撃を多用することとなる。

 

トラックを使わないまでも、体に爆弾を巻き付けて自爆してイスラエル兵を道連れにするという戦術もヒズボラによって使われた。イスラエル兵が、武器を隠し持っていないか確認するために近づくとスイッチを入れて自爆するわけだ。イスラエル側は対応に苦慮した。

 

自爆とイスラム

 

ところで、こうした死を前提とした自爆戦術は、イスラム教的に、どうなのだろうか。イスラム世界では議論があった。というのはイスラムは自殺を禁じているからである。キリスト教と同じである。自らの生命を断つという行為は、神によって禁じられているとの認識である。であるならば自爆戦術は許されず、その実行者は死後に神の御許に近づけない。との議論があった。

 

だが、圧倒的な武力を持つ邪悪な抑圧者への最後の抵抗の手段として自爆を選んだ者を神が罰するはずがない。自爆者は自爆者ではなく殉教者である。自らを犠牲にしてイスラムのために正義のために母国のために家族の名誉のために戦う人々こそ神の友である。こうした反論が出てきた。

 

誰を自爆攻撃の対象とするかで、評価が分かれるようだが、どうも抑圧者に対する自爆攻撃は殉教である。したがって殉教者には天国の扉が開かれるとの認識が強いようだ。自爆という任務を遂行するのは、天国に行くための特権的な行為だとの認識さえあるようだ。

 

イスラエル軍の撤退

 

ヒズボラの兵士の方は、故郷のレバノン南部の解放のために死を恐れずに戦う。ところが、イスラエルの兵士は当然ながら故郷に生きて帰りたいと思う。イスラエル側にとっては不利な状況である。

 

しかも、長年の戦闘を通じてヒズボラの兵士は、殉教精神ばかりでなく、戦場経験豊かなプロの戦闘集団へと成長した。たとえばヒズボラはイスラエル軍の行動パターンを良く観察している。イスラエル軍は危地に陥った兵士を見捨てることはない。必ず救助部隊を送る。

 

そこでイスラエル軍のパトロール部隊を待ち伏せて包囲した場合には、救助部隊の到来が予想される。という先を読んだ上で、まず比較的に少数の兵力でイスラエル軍部隊を包囲したように見せかけて、救助部隊を、より大規模な部隊で待ち伏せるのである。そうすると、イスラエル軍の救助部隊にも打撃を与えられる。少なくとも、イスラエル軍は、救助部隊の投入に慎重にならざるを得ない。ヒズボラはイスラエル軍にとっては手ごわい敵に成長した。

 

イスラエル軍は同軍に協力するレバノンのキリスト教徒などを組織して傭兵として使い、自身の犠牲を最小限に抑えつつレバノンの南部の占領を続けようとした。しかし、お金で戦う部隊が殉教による天国行きを信じている部隊に勝てるはずもない。イスラエル軍と同盟者は、次第に押され、ついに2000年5月にはレバノンから撤退した。

 

イスラエル軍が占領地から何も代償を得ずに撤退する例は稀である。ヒズボラは、その稀な勝利を手にした。レバノン全体が、この勝利に沸いた。ヒズボラに通常は反感を抱いている層さえ、その敢闘に拍手を送った。そしてイスラム世界全体でヒズボラの評価が高まった。同時に、これはヒズボラを支援したイランの勝利でもあった。

 

>次回につづく