コロンビア大学と民主党主流派

 

最後にコロンビア大学と民主党主流派の関係の深さについても言及しておこう。1930年代の大不況の時代から第二次大戦末期までの期間の大統領だった民主党のフランクリン・ルーズベルトは、コロンビア大学のロースクール(法科大学院)の卒業である。その「ニューディール(新規まき直し)」と呼ばれた経済回復策の立案と実行にあたってはコロンビア大学の教員が大きな役割を果たした。

 

この頃から民主党主流派と同大学の結びつきは固い。1977年から81年の民主党の大統領ジミー・カーターの国家安全保障問題の補佐官のズビグ二エフ・ブレジンスキーはコロンビア大学の教員だった。

 

次の民主党の大統領のビル・クリントンの第二期目の国務長官のマデリーン・オルブライトも、コロンビア大学の教員だった。ちなみにオルブライトはアメリカ史上で初めての女性の国務長官である。そして民主党の大統領バラク・オバマはコロンビア大学の卒業生である。現在の国務長官のアントニー・ブリンケンは、ルーズベルトと同じくコロンビア・ロー・スクールの出身である。そして、つい最近、2016年の民主党の大統領候補でドナルド・トランプに敗れたヒラリー・クリントンが同大学で講座を担当した。

 

筆者の記憶では、共和党の大物政治家が同校でコースを担当する例は少ないようだ。もっとも古い話になるが、1952年の大統領選挙に共和党から出馬する前にはドウェイト・アイゼンハワー将軍が一時的にコロンビア大学の学長を務めていた。軍人が政治家に変身する際のクッションとして大学の学長職は、ふさわしいという認識があったのだろうか。軍人臭を消すための時間稼ぎの学長就任だったようだ。前述のバトラー・ライブラリーの壁に同将軍の背広姿の肖像画が反対側の壁のエリザベス女王と向かい合っている。 

 

もっとも当時は、アイゼンハワーは、出馬は噂されていたが、ノルマンデー上陸作戦を指揮した国民的な英雄だったので、どちらの党から出るのかは不明だったが。

 

1970年代末には、ジョージ・マクガバン上院議員がコロンビア大学で講義を担当した。マクガバンは「カム・ホーム・アメリカ!」というメッセージで1972年の大統領選挙に民主党から大統領選挙に出馬した。具体的には、北ベトナム側が拘束しているアメリカ兵捕虜と引き換えにベトナムから撤兵するという提案だった。だが1972年の本選挙では共和党の現職のニクソン大統領に完敗した。

 

そのマクガバンがコロンビア大学で講義を担当したわけだ。このようにコロンビア大学と民主党主流派とは深い関係にある。その大学で学生たちが民主党政権のイスラエル支持の政策に異議を申し立てている。象徴的な風景ではないだろうか。

 

 

1968年と2024年のシカゴ

 

マクガバンに勝ったニクソンは、二期目の任期途中の1974年に民主党本部盗聴事件のスキャンダルで辞任に追い込まれた。そのニクソンが闘った一期目の大統領選挙は1968年に行われた。この大統領選挙と今年の大統領選挙には類似点がある。1968年夏には、民主党はベトナム戦争への介入を拡大したリンドン・ジョンソン大統領の副大統領のヒューバート・ハンフリーを候補者に指名した。ハンフリー自身は、個人的には介入の拡大に消極的だったが、ジョンソンの副大統領だったというので、ベトナム戦争に反対の学生の抗議運動の矢面に立たされた。

 

シカゴで開かれた民主党大会は、抗議の若者たちを警察力で制圧してハンフリーを指名した。この騒動で10名ほどの死者が出ている。この民主党大会の混乱をしり目に共和党の候補者のニクソンは「法と秩序」を訴えた。

 

そして1964年11月の大統領選挙ではハンフリーは共和党のニクソンに惜敗した。敗北の要因の一つは若者の支持を失ったからだった。コロンビア大学などで始まったベトナム反戦運動の帰結が皮肉にも保守派のニクソンの当選だった。

 

そして今年の夏、民主党はシカゴで党大会を開催して現職のバイデンを候補者に指名する予定だ。同じように若者の支持を失ったバイデンが、民主党の大統領候補者指名を受ける。同じシカゴでだ。1968年の記憶とともに“シカゴ”という言葉が民主党支持者の脳裏に不吉に響いているのではないだろうか。

 

-了-