戦争権限法

 

こうした流れを変えたのがベトナム戦争だった。議会は当初、ベトナム介入に批判的ではなかった。たとえば1964年にベトナム沖トンキン湾でアメリカ海軍の艦艇が北ベトナムの魚雷艇による攻撃を受けたとされる事件が発生したさいの議会の対応が、それをよく示している。

 

当時の大統領は民主党のリンドン・ジョンソンだった。同大統領は、議会に武力行使の権限の承認を求めた。これに応えて議会は「インドシナ地域における新たな侵略を阻止するために必要なあらゆる対抗措置」をとる権限を大統領に与える決議案を、圧倒的な多数で可決した。これは「トンキン湾決議」として知られる。

 

しかし、介入は大規模となり、犠牲が増えた。しかも勝利の展望が見えなくなった。この戦争は、やがてアメリカでは支持を失ってゆく。そして1969年に大統領に就任した共和党のリチャード・ニクソンが、北ベトナムから南ベトナムへの兵員・物資の輸送路となっていたカンボジアへとアメリカ軍を侵攻させた。すると今度は、大統領の戦争権限に制限をかけようと議会が動いた。その結果が、1973年に成立した戦争権限法だ。

 

これは大統領が議会の承認なしに武力を行使する権限を制限する内容で、たとえば武力行使の開始から60日以内の軍の撤退を求めている。もちろん議会の同意が得られれば、武力行使の期間は延長できる。つまり、戦争権限法は、アメリカ合衆国憲法の起草者たちの意図した戦争権限の大統領個人への集中を避けるという原則を、原点に返って再確認する内容である。アメリカ議会の上下両院は賛成多数で、この法案を採択した。

 

ニクソン大統領は法案の成立に反対だった。その理由の一つは、60日以内にアメリカ軍の軍事力の行使が終わるとわかってしまえば、敵対勢力に足元を見透かされてしまう。アメリカの交渉力を大幅に弱めてしまうからだ。

 

アメリカでは、法案が議会で採決されると、ホワイトハウスに送られる。そこで大統領が署名すれば法律になる。したがって大統領は、法案への署名を拒否することで、その成立を阻止できる。ニクソンは、法案への署名を拒否した。その成立を阻止しようとしたわけだ。これは拒否権として知られる。

 

しかし、拒否権を乗り越える方途が、まだ議会に残されている。それは大統領の署名が得られない法案を議会が再び3分の2以上の賛成で採決すれば、それが大統領の拒否権を乗り越えて法律になる。1973年には、議会が3分の2以上の票数で法案を再び可決した。それによって戦争権限法が成立した。

 

戦争権限法は、大統領の総司令官としての権限を不当にしばるものだとして、ニクソン大統領は、その合憲性に疑問符をつけた。また、ニクソン以後の大統領も、みずからが、この法律にしばられるとの立場はとらなかった。同時に、この法律の合憲性の判断を連邦最高裁判所に仰ぐという手段に訴えた大統領はこれまでいない。連邦最高裁が合憲と判断する可能性が高いとの判断からだろうか。それゆえ法律は存在するのだが、歴代の大統領は、戦争権限法は違憲だとの立場を取っている。しかも最高裁は、違憲とも合憲とも判断を下していないという宙ぶらりんな法的状態が存在している。

 

しかしながらホワイトハウスは、それ以降はあたかも同法の有効性を尊重するかのように、武力の行使に当たっては、より緊密に議会と協議するようになった。合憲性に疑問符をつけながらもホワイトハウスは、実質上は戦争権限法を尊重するという微妙なバランスをとってきた。それ以降のアメリカによる軍事力の行使は、パナマやレバノンへなど比較的に小規模で短期間で終わった。激しい論議を呼び起こすようなレベルの介入ではなかった。湾岸戦争までは。

 

>次回に続く