出版元の了承を得て以下をアップします。

この内容に関しては既に論じてきました。以下が、その「最進化版」になります。

 

「キャラバンサライ(第146回)ネタニヤフとハマスの因縁」 

『まなぶ』2024年2月号、42~43ページ 

 

 

イスラエルのネタニヤフ首相は、ガザを支配してきたハマス(イスラム抵抗運動)の殲滅を掲げて戦争をつづけている。ふり返ってみると、ネタニヤフとハマスには深い因縁がある。というのは、このネタニヤフが首相になるにあたっては、ハマスが大きな役割を果たしたからだ。
 

ネタニヤフが当時は野党だったリクードという政党の党首になったのは1992年だった。当時の与党は労働党だった。その党首のラビンは、翌93年にオスロ合意を結んでパレスチナ人との和平を進めた。ラビンは、67年の第3次中東戦争で参謀総長としてイスラエルを歴史的な勝利へと導いた国民的な英雄だった。ところが95年11月にラビンが和平反対派の若者に暗殺された。ラビンの後継として首相となったのが外相だったペレスだった。


ペレスは次の選挙を半年後の96年5月に決定した。この選挙キャンペーン期間中にハマスが大きな動きにでた。選挙前に、バスなどを目標とした4回の自爆テロをイスラエル国内で実行した。この連続爆破テロが、ペレスには逆風に、対立候補のネタニヤフには追い風となった。


オスロ合意時の外相として和平交渉を担当したペレスは、選挙中に中東和平の希望を語った。逆にネタニヤフは、「労働党の和平によってイスラエルは安全にならなかった。かえって危険になった。バスに乗るのにさえ恐怖を覚えるようになった」と批判した。


ネタニヤフ首相はかつて、イスラエル軍の特殊部隊でハイジャックされた航空機に突入して顔を負傷した経験があった。その経験も踏まえ、自分は安全保障に強いとアピールした。選挙期間中のハマスの連続爆破テロは、そのアピールを助けた。反対にペレスは、イスラエル男性にしては珍しく、軍歴がなかった。これが足を引っ張った。選挙は、ネタニヤフの勝利に終わった。ハマスの連続爆破テロが、ネタニヤフを権力の座に押し上げた。


ネタニヤフは、その後に選挙に敗れても、そのたびにカムバックした。その政策で興味深いのはハマスへの対応である。


2006年にハマスはパレスチナ人の議会選挙で第一党になった。しかし暫定自治政府を牛耳っているファタハという勢力は、権力をハマスに委譲しなかった。翌07年がガザ地区でハマスとファタハが軍事的に衝突し、ハマスが勝利を収めた。それ以降ハマスがガザ地区を、ファタハがヨルダン川西岸地区の自治地域を、支配するようになった。ネタニヤフは、カタールなどからのガザへの資金の流入を容認した。というのは、ハマスがガザを支配しつづけるのを望んだからだった。ハマスがガザ、そしてパレスチナ暫定自治政府がヨルダン川西岸地区を抑えていれば、パレスチナ人は分裂した状態になるからだった。それは、ネタニヤフにとっては好都合だった。

 

ネタニヤフ首相は、和平交渉にも、その結果としてのパレスチナ国家の樹立にも反対である。和平を停滞させ、その間にヨルダン川西岸へのユダヤ人の入植を進め、実質上の併合を進める。それが同首相の本音である。したがって、ハマスのガザ支配は悪くなかった。それゆえネタニヤフは、ハマスを「生かさぬよう。殺さぬよう」に制御してきたつもりだった。


ところが昨年10月にハマスの奇襲を受け、イスラエルは大きな被害を受けた。当然ながら、その責任はネタニヤフが負うべきである。これまでイスラエル政界で不死身のように、倒れても、倒れても、起き上がり権力にしがみついてきた同首相であるが、今回は、戦争が一段落して、ハマスの奇襲に関する調査や責任追及が始まれば、さすがに生き残りはむずかしいという見方が広がっている。


それゆえネタニヤフは戦争を終わらせるわけにはゆかない。戦時体制をつづける必要がある。いずれにしろ、もし多くの専門家が予想するように、今回のハマスの奇襲攻撃を受けた責任を取らされて失脚する、とすると、ネタニヤフという人物は、ハマスのテロを追い風として選挙に勝ち、ハマスを利用して和平を止め入植を進め、そして最後はハマスによる奇襲の責任を取らされて政治生命を終えることになる。ハマスとの浅からぬ因縁の政治家として歴史は、ネタニヤフを記憶するのだろう。


-了-