「難民」が築いた戦後の日本

 

この点で思い起こしておきたい事実がある。第2次世界大戦後の日本の復興と発展において、大きな役割を果たしたのは、海外植民地からの引揚者たちだった。また、東南アジアの戦場から、さらにシベリアでの抑留から帰国した将兵たちだった。引揚者とか抑留者という名の「日本人」難民であった。その数は600万人以上だった。朝鮮半島の北部や日本人が満州と呼んでいた地域はソ連軍の占領下におかれた。これらの地域からの帰国の旅は悲惨を極めた。 そうした経験をした人々が戦後の日本をさまざまな分野でリードした。

たとえば朝鮮半島から子どもの頃に帰国した作家の五木寛之が、そうした一人だろうか。「なかにし礼」という作詞家は旧満州帰りである。旧植民地帰りが戦後の日本史を彩ってきた。第2次世界大戦が終わった1945年時の日本の人口が7200万人なので、引揚者は、その8%以上になる 。じつに高い比率だ。

 

ソ連軍の捕虜となった日本軍将兵は、長らくソ連に抑留され、強制労働に従事させられた。その多くは酷寒の地域での労働であった。シベリア抑留帰りの中には、活躍した人物は多い。たとえばプロ野球の読売ジャイアンツ、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督として活躍した水原茂などは、その代表だろう。戦

前は、六大学野球、慶応大学のスタープレイヤーであった。三波春夫という歌手もそうである。三波(南)で春とは、なんと脳天気な名前だろうとの印象を与える。しかし、酷寒の体験が「南」で春という芸名を選ばせたのだろう。これ以上に暖かそうな名前は考えられない。経済界では、山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデルとなった伊藤忠商事の経営者だった瀬島龍三もシベリア帰りだ。この人たちが、スポーツにしろ、芸能界にしろ、あるいは経済界にしろ、大きな存在感を示した。シベリアで地獄を見た人たちが、日本の戦後史を駆け抜けている。

 

引き揚げ者や抑留経験者が、つまり日本人難民が、戦後の日本をさまざまな分野で引っ張った。地獄を見た人たちが頑張って日本を動かしてきた。今の日本は難民を受け入れていない。しかし、かつては引き揚げ者という名の多くの日本人難民をたくさん受け入れてきた。そういう人たちの努力が日本の復興と発展を支えた。そして、現在では、そういう地獄を見ていない人々が大半である。今後、日本という国はやっていけるのか、ハイテク国家とし生けるのか。死に物狂いで努力する人々を海外から招き入れなくて、競争して行けるのか。

 

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