ウクライナへの支援に個人的に立ち上がったデヴィ夫人に注目が集まった。このデヴィ夫人という人物の周辺風景が興味深い。もちろん、その風景で一番目を引くのが、夫だったインドネシアのスカルノ元大統領だ。

 

スカルノは、愛に溢れた人物だった。そのため、ソ連を訪問したさいにハニートラップを仕掛けられてしまった。ソ連の諜報当局は、その写真を見せて脅かそうとした。ところがスカルノは動じなかった。そればかりか、その写真をもっとくれと応じた。意表を突かれ、どうするのかと尋ねると、俺の男っぷりの良さを示すために配るのだ、とスカルノは答えた。ソ連の担当者は、これを聞いて脅迫をあきらめた。在モスクワの外交団の間で伝わっている話だそうだ。スカルノらしい逸話だということになっている。

 

スカルノが愛したのは、ハニートラップのロシアの女性だけではなかった。もちろんデヴィ夫人もその一人だった。だが、スカルノが愛した日本人はデヴィ夫人のみではなかった。スカルノ大統領の時代のインドネシアには戦後賠償という形で巨額の資金が日本から流入した。その使い道をめぐって日本の商社や有力政治家が暗躍したという。政治家と企業がスクラムを組んで、利権争いを展開していたのだろうか。その過程で、ある美貌の日本人女性がインドネシアに送り込まれ、スカルノの愛を受けた。しかし、その後に新たにデヴィ夫人が、スカルノの愛の対象となった。

 

このデヴィ夫人とスカルノ大統領については、大宅壮一が批判的な記事を『週刊読売』に掲載した。大宅は、「一億総白痴化」とか「駅弁大学」といった言葉を発明して世相を表現したジャーナリストだった。社会評論家なる表現で言及されたりもする。

 

この記事がインドネシア側を怒らせ、読売新聞は同国での取材がむずかしくなった。そこで、関係修復のために同新聞の若い記者の浅井信雄が送り込まれた。晩年は、テレビのコメンテーターとして活躍した人物だ。現在もつづいているTBSテレビの『サンデー・モーニング』にレギュラー出演していた。デヴィ夫人のご機嫌取りのために送り込まれたくらいだから、若いころはハンサムだったのだろうか。毎晩デヴィ夫人のところに通い、スカルノが仕事から戻るまで、麻雀の相手をしていたという。それもあって、1965年の9月30 日事件のさいには日本との通信の確保でデヴィ夫人に助けられたと回顧している。

 

9月30 日事件というのはインドネシア共産党によるクーデター未遂事件だった。同党が軍の幹部を暗殺して権力を奪おうとしたが、生き残ったスハルトとナスチオンという2人の将軍が反撃に出た。そして共産党員とシンパとされた人々が何十万人も虐殺された事件である。それまで軍と共産党のバランスの上に権力を維持していたスカルノは失脚し、反クーデター勢力を率いたスハルトが権力を掌握することになる。そのさいのスハルトとスカルノの間の交渉においてもデヴィ夫人が重要な役割を果たしたとされている。その後に帰国したデヴィ夫人は、日本のメディアに話題を提供しつづけている。

 

デヴィ夫人の社会活動の一つに、大宅壮一文庫のための寄付集めがある。大宅は膨大な量の雑誌を集めていた。それが、死後に大宅壮一文庫として有料で公開されている。調査のために同文庫を利用するメディア関係者や研究者も多かった。しかし、インターネットの普及によって利用者が減り、経営難に陥っていた。その文庫を救うためにデヴィ夫人が立ち上がったわけだ。かつては大宅壮一の記事に怒った女性が、その雑誌の文庫のためにひと肌脱いだ。週刊誌を賑わしてきた人物らしいふるまいだ。

 

ところで、デヴィ夫人の前にスカルノ大統領の愛を受けていた日本女性は、どうなったのだろうか。ショックを受けて手首を切って自殺したそうだ。葬儀は密かに行われた。第2次世界大戦中の日本の占領期から、東京とジャカルタの関係は深く複雑で、錯綜している。その錯綜した風景の中での一人の日本人女性の死だった。

 

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