40周年


令和という元号を見て、一瞬、冷たい平和の略かと思った。この冷たい平和という言葉、じつはエジプトとイスラエルとの関係に言及されるさいに使われる。ここでは、新元号が想起させた冷たい平和について語りたい。


1948年に成立したイスラエルを国家として承認することを拒否しつづけてきたエジプトが、その存在を認めたのは1977年であった。この年、エジプトのアンワル・サダト大統領がエルサレムを訪問し、イスラエル議会で平和を訴えた。両国間で平和交渉が始まった。エジプトは1967年の第3次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の返還を求めた。逆にイスラエルは完全な外交関係の樹立をエジプトに求めた。それも相互の大使館の設置と大使の交換である。さらに貿易や観光も求めた。


非武装化を条件にシナイ半島をエジプトに返すのは、イスラエルには、それほど困難ではなかった。シナイ半島は聖書にいう契約の地ではない。つまり神がユダヤ人に約束した土地ではない。したがって返還しても神様に叱られるわけでもないし、イスラエル国内の宗教勢力の怒りを買うわけでもなかった。問題は、エジプトとイスラエルの二国関係を超えた領域であった。


具体的には、パレスチナ人の問題であった。パレスチナの権利の回復をスローガンにイスラエルと戦いつづけてきたアラブの盟主のエジプトが、この問題を置き去りにしたまま同国と平和条約を結ぶのか、という問題であった。エジプトのサダト大統領はパレスチナ人の自治を求めた。そしてエジプトとイスラエルの平和条約とパレスチナ人の自治を結び付けようとした。イスラエルのメナヘム・ベギン首相は、頑(かたく)なにこれを拒絶した。


交渉は行き詰まった。ここでアメリカのジミー・カーター大統領が仲介に乗りだした。メリーランド州にある大統領避暑地のキャンプ・デービッドでの集中的な交渉が行われた。そして1978年、ついに両者は合意に達した。


合意は二つの柱からなっていた。一つはエジプトとイスラエルの間での平和条約への交渉の開始、もう一つはパレスチナ人の自治に関する交渉であった。この合意に基づいて1979年にイスラエルとエジプトの間に平和条約が結ばれた。いまから40年前の事件である。そしてシナイ半島がエジプトに返還された。


苦い果実


問題は、キャンプ・デービッド合意の二つ目の柱であった。パレスチナ人の自治に関する交渉は、どうなったのだろうか。


この合意では、イスラエルは自治に関する交渉を約束した。しかし、自治そのものは約束しなかった。たしかにその後に交渉が始まった。しかし、なんの進捗もなかった。別にイスラエルが約束を破ったわけではない。イスラエルは、そもそもなにも約束していなかったからだ。結果から見るとサダトは、パレスチナ人を見捨ててイスラエルと平和条約を結んでシナイ半島を取り戻したことになる。


パレスチナ人の自治に関する交渉についての合意は、この裏切りを覆い隠すアリバイに過ぎなかった。しかし、このアリバイに騙される者はいなかった。そして1981年にサダトが暗殺された。その翌82年にイスラエルはレバノンに侵攻した。この国に拠点をおいていたPLO(パレスチナ解放機構)の影響力を一掃するためであった。


エジプトと平和条約があるので、イスラエルは安心してレバノンに軍隊を進めた。これまでなら、南からのエジプトの脅威がイスラエルの動きをしばっていたからである。イスラエルは、レバノンの首都ベイルートにいたPLOのヤセル・アラファト議長を包囲した。イスラエル軍がベイルートに突入してアラファトの首を取るかどうかという状況であった。となれば市街戦で多くの市民が巻き添えになるであろう。危機が高まった。


ここでアメリカが調停を行い、イスラエルとPLOの間で合意が成立した。この合意によりアラファト以下の戦闘員がレバノンのベイルートからチュニジアの首都チュニスに移動した。ベイルートには非武装のパレスチナ人が残された。この状況下でイスラエルと同盟していたレバノンのキリスト教勢力の民兵が、パレスチナ人の難民キャンプのサブラとシャティーラで大虐殺をおこなった。パレスチナ人にとっては、キャンプ・デービッドの苦い果実であった。


冷たい平和


エジプト政府はパレスチナ人の悲劇を指一本動かさずに静観していた。しかし、同国民の感情はイスラエルに敵対的であった。カイロのイスラエル大使館は幾重にも警備が敷かれ、要塞のようであった。イスラエルとエジプトは平和を維持したが、それは触れば手が凍りつくような冷たい平和であった。日本の元号で言えば、こうして昭和の問題は凍結されたまま冷たい平和として平成に引き継がれた。平成に入ってから、つまり1990年代に、イスラエルとPLOはノルウェーの仲介で秘密交渉を行い、合意に達した。これが1993年のオスロ合意である。


この合意は基本的には三つのポイントからなっている。第一に、イスラエルとPLOの相互承認、第二に、1967年の第3次中東戦争以来イスラエルが占領しているガザ地区とヨルダン川西岸地区の一部でのパレスチナ人の自治の開始、第三に、その他の問題に関しては5年以内に交渉で決着するであった。


第一のポイントである相互承認の意義は大きかった。イスラエルはそれまで、PLOをテロ組織と見ていたし、PLOはパレスチナ人の土地を奪って成立したイスラエルの承認を拒否してきたからである。第二のポイントは、ガザとエリコの先行自治として知られる。ガザ地区とヨルダン川西岸地区の都市エリコでのPLOによる自治が始まった。


問題は、第三のポイントである。両者の交渉によって、自治がヨルダン川西岸の他のパレスチナ人の都市に及ぶようになった。例外はエルサレムであった。この都市の支配権については、イスラエルは手放そうとはしなかった。


問題の最終的な決着には程遠い状況であった。しかも1995年にイスラエルのイツハーク・ラビン首相が暗殺された。そして翌96年の選挙で強硬派のビンヤミン・ネタニヤフが勝利を収め首相となった。これ以降、和平交渉は進展していない。すなわち昭和の問題が、平成に先送りされて放置されてきた。そして問題を置き去りにしたまま、令和がはじまった。冷たい平和が、いつ熱い戦争に変わるかもしれないとの危機感を漂わせながら。


※『まなぶ』2019年6月号、25~27ページに掲載