朝鮮戦争における奮戦はトルコがソ連とNATO諸国に対する発した血で染められた鮮明なメッセージであった。ソ連に対しては、うかつに侵略すればトルコは必死の抵抗を見せるだろうとのシグナルであった。そしてNATO諸国に対しては、同盟国の一員としての義務を犠牲を厭(いと)わずに果たすだろうとの決意の表明であった。
そのトルコがギリシアと共に1952年にNATOに加盟した。トルコ軍の奮戦を見て、西ヨーロッパ諸国もアメリカの説得に応じた。あたかも朝鮮半島で流した血がトルコのNATOへの加盟料であったかのようであった。
そして西ドイツが1955年にNATOのメンバーとなった。NATOの狙いは、アメリカを西ヨーロッパの防衛に関与させ、ソ連の影響力を排除し、ドイツの再軍備を管理するという三点に集約される。第三の点は、西側の防衛力の強化には西ドイツの再軍備が不可欠だが、第二次世界大戦でドイツに占領された周辺諸国にしては、それには恐怖心があった。それゆえNATOの枠組みの中で、その再軍備を管理しようという発想であった。英語で表現すれば、keep US in, Russia out, Germany down!であった。
そして1982年にスペインがNATOに加盟した。スペインは1930年代に激しい内戦を経験した。この内戦においてヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアという二つの独裁国家の援助を受けてフランコ将軍が勝利を収めスペインの独裁者となった。フランコは賢明な外交政策でムッソリーニやヒトラーの援助を受けたにもかかわらず第二次世界大戦に参戦せずに中立を守った。フランコのスペインの第二次世界大戦中の政策は、独裁が必ずしも戦争にはつながらないという例であった。しかし、第二次世界大戦後の西ヨーロッパで独裁国家であるというのは、いかにも座りが悪かった。それゆえ1975年にフランコが死去し、その後のスペインの民主化を経て、やっとスペインのNATO加盟が実現した。既に述べたように1982年のことであった。もっともアメリカはフランコ独裁下のスペインに基地を設置して密接な軍事協力関係を維持していた。したがって、この加盟によってNATの軍事力が急に強大化したわけではなかった。スペインが民主国家になったのは周辺諸国が承認する儀式という側面が大きなNATO加盟であった。
>>次回 につづく