セタードと呼ばれる巨大な経済帝国を支配するハメネイ最高指導者の人生を変えたのは若い時期のホメイニ師との出会いであった。


1963年シャー(国王)は白色革命という一連の国内改革を開始した。その目玉は農地改革であった。白色というのは血の出ない革命という意味であり、上からの改革であった。農地改革は大地主層そして宗教界からの反発を受けた。なぜならば、大地主は都市のバーザール商人であり、バーザールと宗教界は婚姻などを通じて密接な同盟関係にあるからである。バーザールは宗教税の納付で経済的に宗教界を支えている。またモスクや神学校自身も大地主であった。土地からの収入がモスクの維持、神学校の教員給与や神学生の奨学金に当てられていた。


ホメイニ師は国民に抗議行動を呼びかけた。多数のデモ隊がテヘランなど各地で抗議行動を行った。シャーの対応は軍による無慈悲な発砲であった。多数が死傷した。翌日もデモが起こるのは確実であった。シャーは、兵士が2日続けての発砲に反発するのを恐れた。軍が撃たなければ王制が倒れる。夜の内にテヘラン市内に展開していた部隊を郊外に移動させ、交代に郊外から新手の部隊を首都に入れた。2日目も大規模なデモが起こった。新手の部隊がデモ隊に発砲して鎮圧した。数千ともいわれる遺体を残してデモは終息した。ホメイニは逮捕され国外追放となった。


この抗議運動の際のホメイニの動きが興味深い。ホメイニはデモを呼びかけたが、その理由としてアメリカ軍に治外法権を与える地位協定への反対を上げている。農地改革には全く言及していない。この発言を持って、農地改革にホメイニは反対ではなかったとの解釈が可能である。別の解釈は農民に人気のあった農地改革への言及を意図的に避けたとの解釈も存在する。この解釈からは、政治的に鋭い嗅覚の人物としてのホメイニ像が浮かび上がる。


いずれにしろ、このシャーの白色革命を血染めにした1963年の弾圧の際にハメネイは最初の投獄と拷問を経験している。当時24歳であった。その後、何度も刑務所に戻ることとなる。ハメネイと同じ刑務所暮らしを経験した元政治犯は、熱烈な革命家であると同時にユーモアに富む人当たりの良い人物でもあったとハメネイについて思い出を語っている。(続く)


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