墓参りの政治

墓参りが政治的な意味を持つことがある。1972年3月に奈良県明日香村で鮮やかな壁画の高松塚古墳が発見された際に、時の首相の佐藤栄作がこの墓を見学した。超多忙な日本の最高の権力者が、考古学的な興味からわざわざ時間を割いて明日香を訪れた。と考えた人は少なかった。当時、朝鮮半島を日米安保の守備範囲とすべきかどうかの議論が盛んであった。もちろん佐藤首相の考えはイエスであった。佐藤首相の好んだ言葉を使うなら日本人は「大国意識」を持って、日本列島の周辺の防衛にも日米安保を通じて寄与すべきであった。佐藤首相のメッセージは、日本は朝鮮半島の安全保障にも関与すべきである。なぜならば古代から日本列島と朝鮮半島は密接な関係を有して来たからだ。高松塚の古墳の壁画には明らかに朝鮮半島の影響が見て取れる。それは朝鮮半島と日本列島の古代からの連綿たる関係の証である。朝鮮半島の有事は、日本列島の有事である。古代も現代も変わらない現実である。そうした認識を国民に印象づける為の佐藤首相の墓参りであった。実際に同首相が、そう考えたかどうかは知らないが、過激派の学生たちはそう解釈した。そこで奈良の明日香村で学生達はデモを組織した。墓に対する日本史上で最初のデモであった。これに対して当局側は機動隊を繰り出して墓を守った。1970年代の明日香村で古代と現代が交叉した。


モサデク博士

そうした政治的な行為としての墓参りの対象となっているのが、現在のイランではモサデクの墓である。モハマッド・モサデクは1951年から1953年にかけてイランの首相を務めた。それまでイランの石油を独占的に支配してきたイギリス資本の在イラン資産を1951年に国有化した人物として歴史に記憶されている。


このモサデクの人気がイランで復活している。昨年夏にイランで学生のデモがあった際に、ハタミ大統領と並んでモサデクの写真をデモ隊が掲げていたとの報道が目を引いた。また今年の初め、石油国有化記念日が祝日となっていたのに、この祝日を廃止する法案が提出された。しかし、この祝日の廃止に関しては国民の反発が強く、結局この案は引っ込められた。国民の反発はモサデクの根強い人気の反映であった。同時に、この記念日が3月19日であるので、イデオロギーは別にしても、イランのお正月である春分の日の直前を休日のままにして置きたいとの国民の希望も強かった。こんなところにも保守派の政治勘の鈍さと言うか、庶民感覚の欠如が顔を出している。


イランの議会の一部が、わざわざこの国有化の記念日を廃止しようとしたのは興味深い。今年の総選挙では、2月18日の第一次投票、そして5月5日の第二次投票共に改革派が圧勝し、5月末に改革派主体の新しい議会が召集されることになった。この議会は、「新しい」と呼ぶに相応しい。なぜならば現職の大半が落選し、新人議員の多い議会だからである。国有化記念日を廃止しようとしたのは、この新しい議会ではなく、古い方の議会である。大半の議員が落選した議会の方である。この議会では保守派が最大勢力であった。保守派は、なぜモサデクの業績をイランの暦から抹消しようとしたのだろうか。モサデク人気の上昇に脅威を覚えたのだろうか。なぜモサデクは脅威なのだろうか。そして、なぜモサデクの人気が現在上昇しているのだろうか。


スイスで法学を学び博士号を取得しているので、モサデクはイランでは通常ドクトル(博士)として知られる。第二次世界大戦後のイランの民族主義の高揚期を代表した政治家である。繰り返しになるが、20世紀の初頭よりイラン原油を支配してきた現在のBPの前身であるアングロ・イラニアン石油会社の国有化を提唱した。そして1951年に首相に就任するや、同社の在イラン資産の国有化を断行した。国際石油資本はイラン原油をボイコットして経済的にモサデク政権を絞め殺そうとした。追い詰められていたイランから原油を買ったのは、イタリアや日本の石油会社である。若き日の作家、石原慎太郎が、この事件を題材に『挑戦』という小説を書いている。日本のオイル・メンが国際石油資本の鼻を明かして石油を輸入し、アジアの新興国を助ける。そんなストーリーであった。イランにイエスと言った日本だった。だが、この程度ではイランの経済は好転しなかった。そして遂に1953年には、アメリカやイギリスの諜報機関が糸を引いたクーデターで民族主義政権は倒れ、やがてモサデク博士は失意の内に世を去った。


現在の視点から見てのこの人物の重要性は、イランの独立と主権を主張しながらも、宗教色が薄かった点にある。いや宗教色は全くなかった。そう言って過言でない程である。事実、その政権の末期にはイランの宗教界の指導層と対立しており、クーデターの際に反モサデクのデモ隊を組織したのは著名なアヤトラたちであった。そんな経緯もあって、現在の宗教体制への倦怠感が深まれば深まる程、線香の臭いのしないモサデクの亡霊に人心が集まるようになった。モサデクへの追慕は、宗教界を間接的に批判する意味を持つ。モサデク人気の背景である。同時に同じ理由から議会の保守派がモサデクの記憶を暦から消し去ろうとしたのだろう。


アフマド・アーバード村

2000年4月にイランを訪問した際に、このモサデクの墓に詣でた。朝の7時半、日が高くなって暑くなる前にテヘランを出発して西に向かった。目標はテヘランの隣のカズヴィーン州のアフマド・アーバード村である。イランの何処にでもあるような普通の村だが、ここにモサデクの墓がある。モサデク一族は大地主であり、テヘランにそして農村地帯にかなりの土地を所有していた。ちなみに第二次世界大戦前はテヘランの日本公使館もモサデクから賃貸していた。第二次世界大戦後に日本の外交官がテヘランに戻ってきた際には、首相だったモサデクはテナントの復帰を喜んでいるとの冗談で迎えている。


さて、このアフマド・アーバード村もモサデク所有の村である。失脚後のモサデクは、この村に軟禁された形で余生を送り世を去った。モサデクの人気は脅威だったので、ここにシャーは閉じ込めた。なにせモサデク一族はカージャール朝の血を引く名家であり、どこの馬の骨とも知れない成り上がり者の建てたパフラヴィー(パーレビ)朝とは格が違っていた。しかもCIAのクーデターに倒されたモサデク博士は、悲劇の民族主義者である。帝国主義に敢然と立ち向かい、結局は宗教界などの裏切りと欧米の陰謀に倒れた殉教者である。モサデクは、涙好きのイラン人の心を掴んで離さない。その生涯にイランという国の現代史を重ね合わせる人々は少なくない。


村を訪れた前の週に『ニューヨーク・タイムズ』紙が、1953年の反モサデクのクーデターについてのCIAの文書の一部を「暴露」した。「暴露」を「 」に入れたのは、アメリカ政府がわざとニューヨーク・タイムズにリークしたのだろう見なされているからだ。アメリカの対イラン関係改善の為のジェスチャーの一端だろうか。クリントン大統領は就任以来、CIAの文書の公開を進めてきたが、イランに関してのみは未公開のままであった。CIAの説明は、文書が行方不明とするものであった。アメリカのジャーナリズムは、CIAは嘘をついていると非難してきた。それが、今回やっと公開された。ニューヨーク・タイムズなどが所有する『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』の4月17日号に記事が転載されている。内容的には未知の部分は少ない。それでも、これまでは推測であったものが歴史的な事実とし公文書で裏付けられたことになる。こんな時期にモサデクの墓を訪れるのも不思議な偶然だろうか。


1時間半ほど走るとアフマド・アーバードに着いた。幹線道路から並木の道が伸びて村の位置を教えてくれる。塀に囲まれたお屋敷の門でモサデクの墓に来たと告げると、管理人の夫人が門を開けて案内してくれた。門の直ぐ傍に使用人の家があり、門から10本ほどの高い並木があって、その先に屋敷がある。そこがモサデクが余生を送った空間である。しっとりとした広い庭に囲まれている。絨毯の敷き詰めた部屋に靴を脱いで入る。壁にはモサデクの写真が、飾ってある。国有化法案に署名する姿らしきもの、演説するもの、壁を背に座り込んで杖に持たれたモサデクなどなどがある。石油を掘るやぐらの模型がある。石油国有化を象徴しているのだろうか。部屋の地下にモサデクが眠っていると言う。またアリー・シャリアティーによる追悼の文が壁に下げられている。シャリアティーは、世俗の人物ながらイスラムの革命性を説いてやまなかった哲学者である。


裏の別棟の内装が新しくされている。記念図書館になるそうだ。またモサデクが使った当時の自動車も保存してある。時間が、ここでは立ち止まってでもいるようだ。だが、時間はもちろん流れている。モサデクは、世俗の人であり、宗教勢力には必ずしも評判の高い人ではなかった。既に述べたように、モサデクを転覆したクーデターで反モサデクのデモ隊を組織したのは、一部の宗教指導者であった。しかもCIAの提供した金を使ってである。余りに多額のドルがばら撒かれたので、当時バーザールでドルの価値が下がったとの噂まであった。従ってイスラム体制下では、この民族主義者は高い評価を受けて来なかった。モサデクに近かったバザルガーンが、革命政権の最初の首相にはなったものの、直ぐにアメリカ大使館人質事件の際に辞任して権力から遠ざかった。バザルガーンは、モサデク期にイギリス資産を国有化して設立されたイラン国営国有石油会社(NIOC)の最初の総裁であった。


しかし、前述のように最近になってモサデクの人気が盛り返している。国民のイスラム疲れが深まる中で非宗教的な民族主義者であったモサデクの思い出に人心が傾いている。管理人の話でも、訪問者が増えていると言う。モサデクの命日には、大変な人が集まるという。モサデク人気の行方が、この国の将来を暗示しているのだろうか。アフマド・アーバード村のモサデク邸の窓にイランの未来の風景が映ったような気がした。


“Minaret/Revival of Dr.Mosaddegh”『中東協力センターニュース(投資関連情報)』(2000年6/7月号)1~4ページ 連載エッセイ「中東情勢分析ミナレット」用原稿2000年5月18日(木)記


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* 今は廃止された放送大学の社会と経済のホーム・ページに掲載されたエッセイです。今年はイランで石油が発見されてから100周年になります。という事はペルシア湾岸で石油が発見されて100周年という事です。石油価格高騰の時期に昔をしのぶのも味わいのある行為かと思います。