旅の意味


最後に、マルコムの属すグループ、アフリカ系の人々のイスラムに目を移そう。マルコムの旅に多くの黒人が続いた。マルコムの後を追うように多くの信者がネーション・オブ・イスラムを離れた。その中にはイライジャ・ムハンマドの息子のウォレスもいた。この教団のメンバーは次々と正統派の教義を受け容れるようになる。現在ではアメリカの黒人のイスラム教徒、アメリカで最近使われる表現に習えばアフリカ系アメリカ人のイスラム教徒の9割は正統派の教義を受け容れているとされる。ブラック・ムスリムという言葉は、現在でもネーション・オブ・イスラムのメンバーのみを指す場合もある。だが同時にアフリカ系アメリカ人のイスラム教徒全体に言及する際にも使われる。


ブラック・ムスリムの変遷は、約一世代の内に起こった。それはマルコムXの生涯に凝縮されている。キリスト教からのイスラムへの改宗、そして正統派のイスラムへのいわば二度目の「改宗」である。これは歴史的にイスラムが、あるいは他の世界宗教が広がる過程で経験してきたプロセスを凝縮したものである。アラビア半島からイスラムが広がる過程においては、必ずしもムハンマドの教えが最初から正確に周辺で受け入れられた分けではなかった。改宗者たちは、それまでの自分たちの信仰や習慣や伝統をどうしても引きずってしまう。


キリスト教にしてもそうである。クリスマスにサンタクロースが、トナカイに引かせたソリに乗って良い子に贈物をして回るなどという話しは聖書のどこにも書かれてはいない。第一、イエスの生まれたパレスチナの地で雪が降るのは珍しいし、積もることは稀である。もちろんソリなどは使われていない。ましてやラクダならともかく、トナカイの引くソリなどは存在するはずもない。これはキリスト教が広がる過程で北欧の土着の神話などを取り込んだ結果でき上がった話しであろう。


イスラムにしても広がる過程で、どうしても土着の習俗が混入してしまう。また土着化すればするほど、その土地で受け入れられ易くなる。だが同時にそれは7世紀のムハンマドがアラビア半島で説いた教えから離れることを意味する。


しかし、中東との接触が深まれば、イスラムの本当の姿がより正確に伝わるようになる。今まで自分達がイスラムと考えていたものが、実は本物からズレていたのだとの理解が広まる。そして周辺部のイスラムは、正しい道へと導かれることになる。あるアフリカ研究者は、ブラック・アフリカの辺境のイスラムを「田舎イスラム」という言葉で表現している。この言葉を借りるならば「田舎イスラム」が六本木や青山のイスラムならぬ、メッカやカイロの本場のイスラムに近付くわけだ。周辺部の誤解と不純物にまみれた「田舎イスラム」が洗練された都会のイスラムに垢抜けする。アメリカにおけるアフリカ系の、つまりアフロ・アメリカンのイスラムにも「田舎イスラム」という表現が当たりそうである。マルコムは、ゲットーのイスラムから正統のイスラムに近づいたのである。マルコムXの旅の意味であった。


ルイス・ファラカン


ブラック・ムスリムの大半が主流のイスラムに合流した。しかし、ネーション・オブ・イスラムとして残った者たちは、現在ではルイス・ファラカンというカリスマ的な指導者に率いられている。その信徒数は、不明であるが。しかし、この組織は時には信徒数に不釣合いな影響力を発揮する。1995年ネーション・オブ・イスラムが呼びかけた首都ワシントンでの集会には百万人ともいわれる黒人が集った。集会に参加した全員がこの組織のメンバーではもちろんなかった。イスラム教徒である分けでもなかった。しかし、この組織が黒人のアメリカ社会への不満を代弁するとの認識が多くの人々に抱かれている。アメリカ社会で黒人が不当に扱われているとの自己認識がある限り、ネーション・オブ・イスラムの訴えは常に多くの黒人の心に響き続けるだろう。


本章を含め、本書では4章を高橋が担当する。そのいずれにおいても欧米の衝撃に対するイスラム世界の対応を扱う。本章では、奴隷化という最も悲惨な形で欧米の衝撃を受けたアフリカ系アメリカ人のイスラムに光を当てた。「交流」と「共存」が必ずしも幸福な形式を取らない例である。


追記

2008年11月、アメリカ国民は、バラク・オバマという名のアフリカ系のアメリカ人を大統領に選んだ。アメリカの大統領にアフリカ系の市民が選ばれるのは初めてである。特にオバマ自身はキリスト教徒であるが、オバマの父親はイスラム教徒であった。イスラム教徒を父にもつ黒人がアメリカの最高権力者となった。建国以来三世紀目に入っているアメリカも、ここまで旅してきたのかとの感慨を与える事件である。


* 放送大学では2009年4月放送開始予定のラジオ科目『異文化の交流と共存』を制作中です。大学院レベルの科目です。高橋は、その中で以下の4章を担当いたします。第2回『アメリカのイスラム:マルコムXの旅』、第3回『ムスリム同胞団:スエズ運河のほとりで生まれたイスラム復興運動』、第9回『西洋の衝撃/イランのジャラール・アーレ=アフマドの『西洋かぶれ』を例として』、第10回「トルコの苦悩/民主主義、民族主義、世俗主義」
これは第2回のラジオ教材を補完するテキスト(印刷教材)の草稿です。


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*本章は以下に加筆修正した内容となっている。
高橋和夫「アメリカのイスラム(1)9・11の影で」、
『現代の国際政治(’08)9月11日後の世界』
(放送大学教育振興会、2008年)219~252ページ


年表
12~16世紀 西アフリカでティンバクトゥーの繁栄
1925年 マルコム・リトル、ネブラスカ州オマハに生まれる。
1929年 大恐慌の始まり
1930年 ファード、ネーション・オブ・イスラムを創設
1934年 イライジャ・ムハンマド、ネーション・オブ・イスラムの指導者となる。
1946年 マルコム、刑務所に入る。
1948年 イスラムに改宗
1952年 マルコム・リトルからマルコムXに改名
1963年 ケネディ暗殺
1964年 メッカ巡礼
1965年 マルコムXの暗殺
1992年 映画『マルコムX』制作
1995年 ルイス・ファラカン、ワシントンでの百万人の行進を呼びかけ
2008年6月 オバマ、有色人種として初めての民主党の大統領候補に選ばれる


参考文献など
YoutubeなどのインターネットのサイトにマルコムXによる、またマルコムXに関する多数の演説、インタビュー、解説などが公開されている。

また現在のネーション・オブ・イスラムについては,インターネットのサイト、NOI.Org を参照されたい。

高坂昇『キング牧師とマルコムX』(講談社現代新書、1994年)
佐藤良明(監修)『マルコムXワールド』(径書房、1993年)
丸子王児『マルコム・Xとは誰か?:NOI(ネイション・オブ・イスラム)とラップ・ムーブメントの源流』(JICC出版局、1993年)
マルコムX、アレックス・ヘイリィ執筆協力、浜本武雄(訳)『マルコムX自伝』
 (アップリンク、1993年)

高橋和夫「アメリカのイスラム(1)ブラック・ムスリム」、
「アメリカのイスラム(2)文明の衝突を越えて」、
『国際政治(‘04)9月11日後の世界』
(放送大学教育振興会、2004年)205~231ページ
高橋和夫「アメリカのイスラム(1)9・11の影で」、
「アメリカのイスラム(2)政治への衝撃」、
『現代の国際政治(’08)9月11日後の世界』
(放送大学教育振興会、2008年)219~252ページ
中條献「アメリカ」、後藤明、山内昌之(編)『イスラームとは何か』
(新書館、2003年)168~171ページ

David Gallen ed. Malcolm X as They Knew Him
(Ballantine Books, New York,1996)
Benjamin Karim Remembering Malcolm
(Ballantine Books, New York,1992)
Malcolm X The Autobiography of Malcolm X
(Ballantine Books, New York,1992)
Pew Research Center
 Muslim Americans Middle Class and Mostly Mainstream
(Pew Research Center,22 May 2007)
www.pewresearch.org (アクセス2008年6月8日)