ハッジ


この亀裂はやがて覆い隠せない段階にまで達する。マルコムはネーション・オブ・イスラムを離れる。そしてマルコムは思想的な変化を経験する。その背景となったのが、1964年のメッカへの巡礼であった。そこで、それまで悪魔と考えていたブロンドの髪、青い目、白い肌をした人間、つまり白人のイスラム教徒を見る。そして巡礼者たちが、肌、髪、目の色を越えて、イスラム教徒として人間として相互に敬意と親愛の情で接するのを見る。イライジャ・ムハンマドの白人は悪魔であるとの教えを打ち砕く風景であった。マルコムXは、人種を超える普遍的な信仰としてのイスラムを発見する。アメリカのゲットーで育ったイスラムが、主流のイスラムに遭遇した。この遭遇を自叙伝のマルコム自身の言葉に語らせよう。


「世界中から何万もの巡礼者が来ている。様々な肌と髪と瞳の色の人々がいる。青い目の金髪もいれば、黒い肌のアフリカ人もいる。しかし同じ儀式に皆で参加している。魂の団結と友愛の精神を示しながらである。アメリカでの経験からは、白人と非白人の間では存在し得ないと私が信じていた感情である。」
(引用は原著340ページから、翻訳は筆者による。)


こうした体験が、マルコムを新しいイスラム理解へと導く。ネーション・オブ・イスラムの白人を白人ゆえに悪魔として敵視する思想からマルコムは離れる。しかし、それゆえにマルコムはネーション・オブ・イスラムと対立する。そして、帰国後の1965年にニューヨークで説教中に暗殺される。39歳であった。マルコムはネーション・オブ・イスラムと出会い、決裂し、正統派のイスラムを受容した。常に、黒人として、アフリカ系アメリカ人としての、人間としての尊厳を求めた魂の旅の終焉であった。


アメリカのイスラムの風景


マルコムXの旅の背景を成しているのはアメリカにおけるイスラム教徒の増加という現象である。アメリカにおいてイスラム教徒が急増している。イスラム教徒人口の総数に関しては、正確な統計が存在しない。200万から800万の間の様々な推定がある。しかし、いずれの推定でも一致しているのが、イスラム教徒人口の急増という点である。モスクの数の急増などの間接的な数値によって、信徒数の成長を推測できる。イスラムは世界で一番拡大している宗教だとの説があるが、アメリカにおいても信徒の拡大は著しい。拡大の背景はイスラム教徒の移民と、アメリカ市民の改宗である。


イスラム教徒の数の上昇を指摘したが、200万にしろ800万にしろ、アメリカのイスラム教徒は、もちろん一枚岩ではない。アメリカのイスラム教徒を三つのグループに分類できる。まず第一はイスラム諸国から移民してきた人たちとその子孫である。たとえばピュー研究所の2007年の報告書によると、アメリカのイスラム教徒の65パーセントは外国生まれである。第二のグループが20パーセントを占める黒人つまりアフリカ系アメリカ人である。そして第三のグループが15パーセントで、白人の改宗者などを含んでいる。


アメリカのイスラム教徒

第三のグループについて解説すると、イスラムの多様な側面が知られるにつれ、様々な表情のイスラム教徒がアメリカにも見られるようになった。豊かな白人の間でスーフィズムへの関心が高まっている。スーフィズムにはイスラム神秘主義との訳語が当てられる。イスラムに関してはスンニー派とシーア派の差異が良く知られているが。この世界宗教には様々な宗派が存在する。また神に近づく為の様々なアプローチが存在する。神の名を繰り返したり、旋舞に没頭したりするなどの行為を通じて個人が神との合一を体験できるとの考えの人々が存在する。スーフィーと呼ばれる人々である。エジプトのカイロにあるアズハル神学校やイランの聖都コムの神学校のイスラムが「官」のイスラムなら、スーフィズムは「民」のイスラムであろうか。エリートのイスラムに対する庶民のイスラムである。日本列島で奈良の東大寺の大仏と道端で赤いちゃんちゃんこを着せられた地蔵信仰が両立しているように、イスラム社会では往々にして官と民のイスラムが並存している。スーフィズムは個人のイスラムであり、内面のイスラムである。


もう一例をあげるならば、アメリカ先住民(コロンブスが誤って「インド人」と呼び、最近まではインディアンとして日本でも知られていた人々)の間でのイスラムの広がりが伝えられている。実は、コロンブス以前にアメリカ大陸でイスラムが信仰されていたとの説が提出されている。アラビア語起源と考えられる先住民の名前や地名が存在する事実が、この説の根拠を成している。もし先住民の一部がもともとイスラム教徒であったとすれば、この改宗には「回宗」の、つまり本来の宗教に戻るという側面もあるのだろうか。黒人はかつてアフリカではイスラム教徒であったので、キリスト教からイスラム教への改宗は回宗であるとの既に紹介した議論にも類似した理解である。


>>次回、「旅の意味 」に続く


* 放送大学では2009年4月放送開始予定のラジオ科目『異文化の交流と共存』を制作中です。大学院レベルの科目です。高橋は、その中で以下の4章を担当いたします。第2回『アメリカのイスラム:マルコムXの旅』、第3回『ムスリム同胞団:スエズ運河のほとりで生まれたイスラム復興運動』、第9回『西洋の衝撃/イランのジャラール・アーレ=アフマドの『西洋かぶれ』を例として』、第10回「トルコの苦悩/民主主義、民族主義、世俗主義」
これは第2回のラジオ教材を補完するテキスト(印刷教材)の草稿です。