X


X とは過去が知れないとの意味である。アメリカの黒人の悲劇は、そのアイデンティティーを、そしてアイデンティティーの核心である過去を白人によって奪われた事だ。アフリカでは黒人は自分たちの名前を、歴史を、宗教を、文化を、伝統を、習慣を、そして何にも増して誇りを、自尊心を持っていたはずである。しかし白人は、その全てを奪った。アフリカからアメリカに奴隷として運ばれた何百万人という黒人全体が、現代日本の言葉を使えば拉致被害者となった。黒人たちは過去を奪われ、代わりに白人の奴隷所有者の名前を与えられた。アイデンティティーを奪うという行為を象徴するのは、改名である。


2001年にスタジオジブリが公開したアニメ映画『千と千尋の神隠し』でも主人公の千尋は、迷い込んだ不思議な世界では千尋と言う名前を奪われ、千と呼ばれる。千は不思議な世界を抜け出し、千尋に戻った。だが少なくともマルコムXの時代においては、アメリカの黒人は人種差別という世界に閉じ込められたままであった。その世界から抜け出す一歩が、自分の本当の名前が知れないという宣言である。マルコムXという名前自体が白人に対する抗議であった。


刑務所から出たマルコムXはネーション・オブ・イスラムの伝道師として活動を始める。刑務所にいたからといって驚かないで欲しい、アメリカの黒人全てが人種差別の巨大な刑務所にいるのだから。とマルコムXは黒人が誇りを持つように、自立するように、白人社会から決別するように訴えた。黒人が誇りを取り戻す上で重要なのは、自らの歴史の再発見である。黒人たちはアフリカでの過去を知らない。そしてアフリカでは野蛮の中で生活していたと思わされていた。


しかしながら、西アフリカの現在のマリ共和国にあるティンバクトゥーは、12世紀から16世紀にかけてサハラ砂漠を縦断する貿易の要地として繁栄し、イスラム研究の中心地の一つであった。この地域では黒人のイスラム教徒による文明が栄え、支配者は黄金に満ちた宮殿に生活していた。アメリカの黒人の祖先は文明人であった。とイライジャ・ムハンマドは説いた。


スラムのイスラム


1950年代末からネーション・オブ・イスラムの信徒の増大が注目を集めるようになった。この教団の信者はブラック・ムスリムとして知られた。ムスリムとはアラビア語でイスラム教徒という意味である。シカゴ、デトロイト、ニューヨークなどの都市部のゲットーでブラック・ムスリムの信徒が増大した。なぜゲットーでイスラムへの改宗が起こって来たのだろうか。それは、そのメッセージの新しさ故であった。イライジャ・ムハンマドは白人が黒人支配を正当化し永続化させる手段だとしてキリスト教を攻撃した。キリスト教が愛の宗教であるならば、何故に非人間的な奴隷制度や人種差別を神の意志でもあるかの如くに、キリスト教会は容認して来たのだろうか。なぜ教会に祭られるイエスは、白い肌、青い目、金髪なのだろうか。聖書にはイエスの容貌についての、そうした記述は存在しないではないか。なぜ全ての天使は白人の容貌で描かれているのだろうか。これは全て白人が黒人を騙すための仕掛けである。キリスト教会は来世での救いを約束して現世での黒人の苦しみを放置して来た。こうした激烈なキリスト教に対する攻撃と同時に、黒人こそ神が創造した最初の人間であり、白人は悪魔の化身であると説いた。


白い肌が、真っ直な金髪が美しいと考えるのは白人の価値観に騙されているからであり、神が最初に創造した人間である黒人の容貌こそが美しいのだと教えた。さらに奴隷として苦しんだ黒人こそが神の救いの国に到達できるのだと議論を続けた。この教えは、人種差別の中で自己嫌悪に陥っていた黒人たちに尊厳と誇りを教えた。ゲットーでイライジャ・ムハンマドのイスラムが広がった。


しかもイスラムへの改宗は改宗ではない。それは「回宗」であるとも主張した。なぜならばアフリカ大陸に置いてはアメリカの黒人のかなりの部分はイスラム教徒であった。そしてアフリカのイスラムはティンバクトゥーの遺跡に代表されるように高度な文明を誇った時期もあった。アメリカの黒人の悲劇は、そのアイデンティティーを、そしてアイデンティティーの核心である過去を白人によって奪われた事だ。それゆえイスラムへの改宗は、失われた過去の奪回でもある。その主張の終着点は黒人のアメリカの白人のアメリカからの分離独立であった。


イライジャ・ムハンマドのラディカルなメッセージをマルコムXは激しいリズム感の言葉で伝えた。そして、そのリズム感は聴く者の心を揺さぶった。実際に演説を聞いてみると、マルコムXの演説が現代のラップ音楽に影響を与えているとの説に納得してしまう。マルコムXの言葉は火となって燃え上がり、アメリカの人種差別の暗闇を明々と赤々と照らし出した。また白人の優越という既成概念を焼き尽くすかのようであった。マルコムXのイスラムは、アメリカでの厳しい人種差別に虐げられた黒人の間に生まれた怒りの、苦しみの、抵抗のイスラムであった。それは黒人の人間としての尊厳を求める叫びであった。スラムのイスラムであった。


ネーション・オブ・イスラムは信徒を急増させた。しかし、その教えは本当のイスラムだろうか。正統派のイスラムの教義から逸脱してはいないだろうか。例えば前述の白人を悪魔の化身と見なす解釈などは、コーランのどこにも見つからない。ネーション・オブ・イスラムが人種差別の中で発展した教団であるゆえに、こうした教義が出て来たのだろうか。やがて教団は、中東の「正統のイスラム」の衝撃を経験する。議論をマルコムXに戻そう。


「あらゆる手段」によって黒人は独立すべきであると当時のマルコムXは考えた。このマルコムXに導かれてキリスト教からイスラムに改宗した数多くの信者の中で、一番著名な人物がローマ・オリンピックのボクシングの金メダリストで、プロに転じて世界チャンピオンになったカシアス・クレイである。クレイは、良く知られているようにムハンマド(モハメッド)・アリと改名した。


マルコムXの舌鋒は、大統領さえ容赦しなかった。1963年6月ヨーロッパ訪問中のケネディ大統領が西ベルリンで、ベルリンの壁を批判した。この壁を作った共産主義を攻撃した。しかし、このケネディ大統領に対して、アメリカ南部のアラバマやミシシッピイにおける人種差別の壁を放置しているとマルコムXは激しい言葉を浴びせている。しかも、この年11月にケネディが暗殺されると、マルコムXは身から出た錆と発言した。黒人に対する暴力を許容した社会が、ついに大統領の命を奪ったとの旨であった。


発言の過激さは白人社会の反発を引き起こした。激しい批判は、往々にして憎悪で迎えられる。批判された側は、感情的な反応を示す場合がある。ケネディの暗殺で感情的になっていた人々をこれ以上に刺激するのを恐れたイライジャ・ムハンマドは、マルコムXに沈黙を命じた。二人の間に亀裂が走った。


>>次回、「ハッジ 」に続く


* 放送大学では2009年4月放送開始予定のラジオ科目『異文化の交流と共存』を制作中です。大学院レベルの科目です。高橋は、その中で以下の4章を担当いたします。第2回『アメリカのイスラム:マルコムXの旅』、第3回『ムスリム同胞団:スエズ運河のほとりで生まれたイスラム復興運動』、第9回『西洋の衝撃/イランのジャラール・アーレ=アフマドの『西洋かぶれ』を例として』、第10回「トルコの苦悩/民主主義、民族主義、世俗主義」
これは第2回のラジオ教材を補完するテキスト(印刷教材)の草稿です。