「『書く』ということは特権的行為である」 岡 真理(現代アラブ文学研究者)


1. テーマの選択


●そもそも
『論文の書き方』という類のタイトルの本がやたら目につく。『論文の書き方という本の書き方』とでもいった種本でもあるのではないかと疑いたくなる。だがむろんそんなものは存在しない。筆者がこの章の執筆にあたって苦労していることからもそれは明らかだ。


研究に当たって、最初にぶつかる問題が、テーマの選択である。テーマをいかにして選ぶのか。まず第一の選択の基準は、興味である。興味がなければ勉強する気にもならない。何を研究したいのか、自らに尋ねる必要がある。研究に時間とエネルギーを注ぐのであるから、本当に知りたいテーマでなければ続かない。流行であるからとか、格好よさそうだからというようなテーマでは、根気が続かない。情熱を傾け続けるだけの興味を覚えるテーマが必要である。第二が研究の意義である。研究に値するテーマがどうか、よく考えねばならない。人生の何分の一かを注ぎ込むくらいの熱意で論文に取り組むのであるから、やはり意義のあるテーマを選びたい。東京が日曜日のとき大阪は何曜日か?との類(たぐい)の研究では困る。そして第三が研究可能性である。どんなに素晴らしいテーマでも、研究ができないテーマでは仕方が無い。論文のテーマとは、興味、意義、可能性の三つが重なったところにのみ存在し得る。


論文テーマ図

ところで、そもそも論文とはなんだろう。論文を書くというのは人類の所有する知の総体に何かを付け加える行為である。と筆者自身は考えている。それは新しい事実であったり、これまでとは違う解釈であったりする。つまり他人がこれまでにやっていないことを研究し書くことが論文の核心である。言葉を変えるならば独自性、あるいはもう少しおおげさに言えば独創性が求められる。オリジナリティーというカタカナもよく使われる。オリジナリティーが色濃く出れば出るほど論文としての価値は高まる。逆にオリジナリティーの欠陥した文章の論文としての価値は低い。もっと言えばオリジナリティーがなければ論文ではない。確かに世の中には「論文」とのタイトルのもとでオリジナリティーの不足した文章が多々出回っている。だが筆者はそうした文章を論文とは認めない。それらは「お勉強」であって論文ではない。その手の「論文」の氾濫はインクのむだ、紙のむだ、木のむだ、森のむだ、地球環境への脅威以外の何物でもない。

とまくし立ててはみたものの、「お勉強」に意味がないというのではない。それは、論文に至る準備作業として必要な過程である。実は大学生の書く「論文」の大半は、この準備作業を意味している。あるテーマを選び、そのテーマに関する文献を読破して、結果をまとめるという作業である。実際のところ、オリジナリティーの域に達するのは容易ではない。しかし、その域にたとえ到達できないとしても、テーマを決めての勉強は貴重な知的作業であり、評価されるべきである。放送大学の選択の卒業要件が求めているのが、卒業「研究」であって卒業「論文」ではないのは、両者間の差異に配慮した結果であろう。繰り返そう。「研究」は尊い、しかし「論文」はさらに尊い。

論文から距離のある場所に存在する文章の例としては教科書がある。普通は教科書は、学界のコンセンサスを論じている。つまり、教科書の目的は、これまでの人類の知の蓄積の要約である。であるのでオリジナリティーはない。しかし、だからと言って教科書の価値が低いというものではない。その目的がオリジナリティーの追求ではないからだ。もう一度、述べよう。放送大学の印刷教材と呼ばれる物を含めて大半の教科書は論文ではない。教科書のような論文を書こうとしては成らない。

さてオリジナリティーあっての論文とはいうものの、世の中のすべての論文に地球をひっくり返すような独創性を求めている分けではない。仮に、ある地域の、これまでに研究されていない祭りの起源を調査して、それを文章にまとめれば立派な論文になるだろう。ささやかなテーマでも、小さなテーマでも人が足を踏み入れたことのない分野の研究は論文になり得るのである。また人と違う説を唱え、それを論証する作業を文章にすればそれは立派な論文になる。テーマの大小に限らず、既存の知識の総体に何か新しいものを加えることができれば、それは論文である。


●古いきを訪ね新しきを知る
そこで必要になるのはなにが新しい知識かという問題である。論文執筆の第一歩は、そのテーマにおける既存の人類の知識の蓄積を勉強することである。つまり先行研究を踏まえねば成らない。たとえば、ある人が仮に「巨人が優勝した歳は阪神は優勝していない」との論文を書いたとしよう。書いた本人にとっては新しい知識であっても他の大多数の日本人には、これは発見でもなければ、新知識でもない。既存の知識に過ぎない。当たり前のことに過ぎない。ひとりよがりに過ぎない。論文としての価値はもちろんない。そもそもの既存の蓄積に関する知識があれば、こんな論文は書こうとはしないであろう。これは端的な例であるが、既存の知識への目配りの重要性を思い起こすよすがとはなるだろう。古きを訪ねることなくして新しきを知ることはできない。

となると選んだテーマの先行研究をカバーする必要がでてくる。全部とは言わなくても少なくとも主要なものには目を通す必用がある。これは容易な作業ではない。テーマが広ければ広いほどカバーすべき文献は膨大になる。論文を書く段階に到達する前に先行研究の海に溺れてしまいそうである。たとえば学生の論文指導をしていて「国際政治について」とか「戦後の日米関係」についてといったテーマに出くわすことが多い。指導教員としては希望を失いそうになる瞬間である。そうしたテーマで意味のある論文を書けるのは、長い時間をかけて先人の蓄積を研究してきた者のみである。よほどの大先生にだけ許されるテーマと言える。テーマが大き過ぎれば古きを訪ねるのに疲れてしまい、新しきを知る元気が残らない。


●小さいことは良いことだ
逆にテーマが絞られれば絞られるほど論文として完成する可能性が高くなる。「日本史について」というテーマよりは「織田信長について」というテーマのほうが良いし、さらには「織田信長について」よりは「織田信長の戦術について」のほうが良い。「織田信長の長篠の合戦の戦術について」ならなお良い。もっと良いのは「織田信長の長篠の合戦における鉄砲隊の戦術について」であろう。「良い」というのは先行研究の量が限定されてカバーすることが容易になるという意味である。もうひとつ例をあげよう。

筆者が研究対象にしている中東について学生が提案してくるテーマにはよく「パレスチナ問題について」という類のものがある。こうした砂漠をさ迷っているような茫洋(ぼうよう)たるテーマがまともな論文にたどり着いた例はない。反対に成功したテーマの例には、「ソ連(ロシア)からイスラエルへの移民」についてがあった。専門誌に記載されたほどである。早い時期に論文のテーマを絞り込んだのが、成功の最大の要因であった。一般論としていえばテーマは小さければ小さいほどよい。


●的(まと)は撃ってから描け
テーマが決まれば、まず最初の作業は資料集めである。論文では自分の主張を文献あるいは証言をもって論証することが求められるわけであるから、資料がなければ話しにもならない。まず資料ありきである。図書館に行くなり、インターネットを使うなりして資料を探す。これが論文を書くという作業において大きな比重を占める。そして資料が集まれば実際の執筆が可能になる。こうしてみると論文を「書く」前に、テーマの選択をめぐって頭を使い、そして資料集めで足を使うことが求められる。コンピューターを駆使して資料を集める場合は指であろうか。ここで付言すれば、論文執筆とは体力、気力、知力を必要とする全身運動である。

だがテーマは気に入っていても、残念ながら資料がない場合がある。あっても読めない場合がある。イスラエルの故ラビン首相について書こうとしたが資料がヘブライ語でしか存在しなければ、しかもヘブライ語が読めなければ論文は書けないということになる。となれば、前述のテーマの選択の項で述べた「可能性」という面で、このテーマは良くない。このテーマは諦めざるを得ない。テーマは小さければ小さいほど良いと前述したが、ただ小さければ良いというものでもいない。そのテーマについて資料が存在することが不可欠である。しかも利用可能な資料がである。

論文を書こうとする場合には往々としてテーマを設定し、それに合わせて資料探しをするのが通例である。だが成功率の高いのは、まず資料に出会い、それに基づいて書けるテーマを選択するという方法である。私事になって恐縮だが、一例を上げよう。1979年にテヘランのアメリカ大使館が急進派の学生に占拠される事件があった。大使館側は占拠される直前に秘密文書をシュレッダーにかけた。しかし学生たちは、細かく切り刻まれた文書をていねいにつなぎあわせて元の文書を再現し、これを出版している。あたかもイラン特産のペルシャ絨毯を織るような丹念さである。これは、テヘランのアメリカ大使館文書として知られ、アメリカ外交の内幕を示す貴重な資料である。その一部にクルド情勢に関するものがある。少数民族クルドの動向をアメリカがいかに把握していたかが詳細に叙述されている。この文章にもとづいて、筆者は1980年代にアメリカのクルド認識について論文を発表した。これは、アメリカのクルド問題認識というテーマがあって資料を探したのではなく、資料があったので、それをもとにして論文を書いた経験である。資料がテーマを決めた例である。

たとえて言えば、テーマという的に向かって銃を撃つのではなく、壁に向かって銃を撃ち、弾の当たったところに的を描くのである。こうすれば百発百中は間違いない。テーマに合わせて資料を探すのではなく、資料に合わせてテーマを決めるのである。これは極端な例でもなければ特殊な例でもない。資料のあるものを書くのである。また資料がなければ書けもしない。歌は世に連れならば、論文は資料に連れるべきである。

結論を述べれば、与えられた時間で読める程度の資料のあるテーマが良いテーマである。与えられた時間は個人によって場合によって違う。生涯という時間の枠を持っている者もいれば、二~三週間という時間で論文を書く場合もあるだろう。テーマとは手間である。つまり手間と暇をかけて選び、悩みに悩んで絞りに絞り込む作業の結果として到達するのが論文のテーマである。もう、これに決めた。これしかない。という決意の別名であり、心の状態である。良いテーマに出会った者は本当に幸せ者である。論文の勝負の大半は、すでにこの段階でついている。


>>次回、「2.論文のパターン 」に続く


*放送大学では2009年度放送開始の『市民と社会を生きるために~実践のすすめ~』というラジオ番組を制作中です。その中で高橋は第12回「論文の書き方」と第13回「プレゼンテーション」を担当予定です。ここにアップしたのは放送教材を補完するテキスト(印刷教材)の草稿です。