急接近


中国のイランへの接近が急である。中国は、2006年にはイランとの貿易総額で日本を抜いてトップに立った。投資の面でも中国は積極的である。日本がイラン南西部のアザデガン油田への出資比率をアメリカにけん制されて大幅に引き下げたのに対し、中国のシノペック社は2007年末にイランのヤダバラン油田への20億ドルの投資契約を締結した。日中の対イラン政策での対比は昼と夜のように鮮明である。


イランへの急接近の背景にあるのは、中国でのエネルギー需要の急増である。石油と天然ガス資源に恵まれたイランは、中国にとって限りなく魅力的な国である。逆にイランも中国を必要としている。イランはその核開発を巡りアメリカの主導する西側先進工業諸国の実質的な経済制裁下にあるので、経済制裁に批判的な中国はテヘランにとって重要である。経済的な政治的な要因が両国を相互に引き寄せている。


栄光と屈辱の共有体験


経済的な政治的な要因以外にも両国の接近を後押ししている力がある。それは類似の自己認識である。自己の歴史に対する高すぎる程の誇りである。両国の歴史には類似点が多い。イランと中国は古代から現代まで同じ民族として連続性を保っている。こうした国は少ない。たとえばイランの周辺のパキスタン、アフガニスタン、イラク、アラビア半島諸国などはイギリス帝国主義が自分の都合でデッチ上げた人工の国家もどきであり、イランのような本当の国ではない。とイラン人は心の底で思っている。


しかもイランと中国は、野蛮人の海に囲まれながら文明の灯を高く掲げてきたとの自負心に満ちた人々である。中国という国家の名称からして自らが文明の中心であるとの認識の反映である。こんな厚かましい国家名称があるだろうか。その中国の文明こそが、まぶしく輝く中華である。中国人がシナ支那という言葉を嫌うのは、漢字が良くないからだ。自分たちの国が「支」などであるはずがない、支ではなく、中心なのである。それゆえ中国嫌いの日本人は、わざわざシナという言葉を使うようだが。


この中華に比べると周辺の人々は、漢の時代に中国を西北から脅かした人々は、たとえば匈奴(きょうど)のような芳(かんば)しくない漢字を当てて言及された。匈には「騒ぐ」という意味があるようだし、奴は奴隷の奴である。無知で物事の道理に暗い状態を意味する蒙昧(もうまい)という言葉があるが、この蒙の字を当てて北方の地を蒙古と表現するなど漢字を発明した民族にかかると周辺の民族には居場所がない。


イラン人が周辺の民族に対して抱く感覚も、これと大差がない。かつて全オリエントを支配したアケメネス朝ペルシア帝国の子孫である。アラブ人やトルコ人などとは同列に扱われたくない。1930年代に国名をペルシアからイランに変えた。イランとはアーリアン(「高貴なる者」)の意である。つまりヨーロッパ人と同じインド・ヨーロッパ語系であり、セム系のアラブ人とは違うという強烈な表現であった。


しかしながら、過去の偉大な栄光を誇るイランと中国は近代に入ってからは、列強の帝国主義の餌食となり半植民地状態の悲哀と屈辱を味わった。中国は1949年の中国革命の勝利まで、つまり中華人民共和国の成立まで、そしてイランでは1979年のイスラム革命の勝利まで、つまりイラン・イスラム共和国の成立までである。とそれぞれの公式の歴史は教えている。過去の偉大さ、帝国主義の時代の屈辱、この二つはいわば両国民の共有体験である。優越感と被害者意識の融合した感覚である。イランと中国は、帝国主義の「被害者の会」的な心理的な連帯感で結ばれている。


中国モデルとイスラム・カード


しかも現在のテヘランの指導層は、中国を経済発展のモデルとして見ている。内外からの民主化要求を拒絶し共産党の独裁下で急速な経済成長を実現する中国の姿は、イスラム勢力の権力の独裁下での経済成長の可能性を示唆してはいないだろうか。


その上、中国は、イスラムというカードを使って両国の連帯感を強めようとしている。中国には2000万以上とされるイスラム教徒がいる。2000万といえば、たとえばシリアの総人口1800万を上回る数字である。中国は、イランを含む中東諸国に対しては、自国のイスラム的性格を強調している。イランは、中国のイスラムを発見しつつある。2000年6月と10月に当時のハタミ大統領が中国と日本をそれぞれ訪問した。中国では5日、日本では4日を過ごしている。かつてハタミ大統領の官房長官と話す機会があり、この点を冗談半分に尋ねた。「より長いを時間を中国で過ごしたのは、日本より中国の方がイランにとって重要なのか」と。官房長官の返答は「中国ではイスラム教徒の地域を訪ねたので、それを除けば日本と同じ4日間しか過ごしていない」との旨の返答があった。ハタミは、わざわざ新疆ウイグル地区を訪れている。それが北京で過ごした時間と別勘定なのが興味深かった。またハタミは、その北京でもモスクで祈っている。イランは中国のイスラムを発見しつつある。


シルクロード・ロマン


こうしたイランと中国の連帯感の絆の中で、中国が一番頻繁に言及するのが両国の長い関係である。それは、もちろんシルクロードを通じての接触である。広い意味でのペルシア帝国の文明や文化が中国に流入している。中国人は、西域つまりペルシア方面からの文物には胡とか西とかの漢字を付けている。たとえば胡瓜(キュウリ)とか西瓜(スイカ)がそうである。仏教もキリスト教もゾロアスター教も、そしてイスラム教もペルシア文明圏を通って中国に伝えられた。逆に茶、紙、絹などの古代の中国のぜいたく品、ハイテク製品、バイオ・エンジニアリングの産物がペルシア文明圏を通じてヨーロッパに流れた。


政治的にも中国の側には、シルクロードの彼方の国家と協力して、遊牧民の脅威に対抗しようとの試みがあった。前漢の武帝は、先述の遊牧国家匈奴に対する同盟を説くために西域の大月氏に張騫を使者として派遣している。大月氏は現在のウズベキスタンに存在した国家である。この前漢と紀元をはさむ後漢は、班超を西域に派遣した。班超は西域を平定したのみならず、使者をローマにさえ派遣しようとした。その使者はペルシアにまで到っている。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」との名言を残したのは、この班超である。


ペルシアと中国という二つの文明圏の交流と交易はユーラシア的スケールの壮大なロマンである。中国は、イランとの接近に当たって、この歴史を十二分に利用している。イランとの交流に当たっては、中国が強大であり、ペルシアが偉大であった時代の記憶を飽くことなく呼び起こそうとしている。古代への言及は常にイラン人の歴史意識を、そして大国意識をくすぐる。中国人はイラン人扱いのツボを心得ているようだ。


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