邪馬台国論争 | 歴史の裏

邪馬台国論争

  魏志倭人伝は本当の話か

 

 話は少し古くなるが、NHKのクローズアップ現代で「いったいどこに? 日本史の謎・邪馬台国」を放映していた(7月4日)。佐賀県の吉野ケ里遺跡から新しい石棺が出土したことに絡んでの番組だった。邪馬台国がどこにあったのかは江戸時代から続いている論争で、北九州説と近畿説が激しく争ってきた。私はまたかという感慨とともに、論争の根本が違うのではないかという疑問を感じた。

 

日本には資料がない

 邪馬台国の存在は中学時代に歴史の授業で教わった。当時は疑問を感じていなかったが、論争を聞いてから変な気持ちになった。邪馬台国について日本には資料がない。中国三国時代を綴った歴史書「三国志」の中の魏志に「倭人伝」が書かれている。実は魏書では「東夷伝倭人条」となっており、それを日本人が「倭人伝」と名付けた。それによると、2~3世紀、日本には約30の国からなる「邪馬台国」という国があり、その女王は「卑弥呼」と呼ばれていたという。古くから「大和国」の音訳として知られていたが、江戸時代の新井白石が中国語の音読から「やまたいこく」の読み方が定着したとされる。

 

伝聞で作られた倭人伝

 魏志を含む「三国志」は中国で3世紀ごろに陳寿という人が編纂した歴史書。内容の詳しいことは省くが、倭人伝には日本への行き方が書いてある。しかし、その通りに進むと太平洋の南方へ行ってしまう。だから、邪馬台国がどこにあるかの論争では、九州説も近畿説も方向か道程の距離かどちらかをごまかさないと行き着かない。それは当たり前のことだ。陳寿は日本を訪れたことはなく、人から聞いたものを編纂したのである。事実ではなく伝聞なのに、それを事実として論争すること自体無意味なのだ。

 太平洋戦争前、私たちは古事記や日本書紀を事実だとして学ばされてきたが、戦後は大和朝廷による作り話で事実ではないと教わった。しかし、最近では記紀の資料性が見直されている。日本最初の歴史書である記紀を事実でないという歴史家たちが、伝聞を基に編纂した魏志倭人伝を事実だとして論争する滑稽さは噴飯物である。本来、「邪馬台国はあったのか、なかったのか」「卑弥呼はいたのか、魏志の創作なのか」を議論すべきなのに、その場所を論争するなんて日本の歴史学者はアホばかりの集まりか。

 

「中朝」思想の産物

 日本は中国を手本として国づくりをしており、政治理念の根本として儒教をあがめてきた歴史から、中国を「中朝」とあがめ、日本は辺鄙な国として程度が低いと卑下してきた文化がある。そろそろ脱却してはどうだろう。