英語スピーキングテスト | 歴史の裏

英語スピーキングテスト

  「話す力」テストは差別

 

 東京都が来春の都立高入試から導入する英語スピーキングテストを11月27日、実施した。試験後、受験生から「他の生徒の回答が聞こえた」と疑問など不備が指摘された。採点はベネッセのフィリピン関連会社が行うが、これについて明確な採点基準がないことやベネッセが実施している別の検定試験と似ているなど公平性を疑問視して入試への採用に反対する声があったという。

 

個人差が大きい

 テストは「話す力」の育成が狙いだというが、「話す力」ってテストすべきことなの。英語は話す内容を伝える道具であって学力とは関係ない。アメリカやイギリスへ行けば生まれた時から英語を使っている。猫や犬も英語だ。ドイツはドイツ語だし、フランスはフランス語だ。もし「話す力」が学力テストなら、日本語の「話す力」のテストはなぜないのか、誰も疑問を抱かない。

 聞く力や話す力には個人差がある。難聴でなくとも、高音や低音、特殊な音が聞きづらい人がいる。話す方も、吃音だけでなく、言葉がうまく出てこない人やシャイで話し下手な人もいる。私は中学生まではうまく話しができず、バカにされたりいじめられたりした。その後、中耳炎になって高音が聞きづらくなった。こんな個人差のあるものをテストするなんて差別そのものだ。

 

意思伝達に外国語は不要

 大体、今時意思を伝えるのに外国語が必要なのだろうか。今や日本語で話せば、相手の国の言葉に翻訳して伝える機器がある。用件を伝えるだけなら主要国の言葉は習得しなくて済む。こんなものの習得に時間をかけて何の得があるのか。そんな暇があったら、もっと多様な知識を学ばせた方が役に立つ。欧米への劣等感をまだ引きずっているとしか思えない。