北上夜曲と安藤睦夫⑤ | 歴史の裏

北上夜曲と安藤睦夫⑤

北上夜曲歌唱コンクール

1987(昭和62)1010日には、岩手県中央部の北上市で第1回の北上夜曲歌唱コンクールが開かれた。ここは北上夜曲の作詞者(菊地(のりみ))・作曲者(安藤睦夫)とは無縁の土地だが、「北上」市であり、北上川の堤防には約2㌔にわたる桜並木が続く名勝・展勝地のほか展勝地公園内に1万本あるという東北有数の桜の名所があるなどから、コンクール会場に選ばれたようだ。

参加した56人とコーラス3団体は、歌とともに自分と北上夜曲への思いを語った。東京の主婦は多摩川を、新潟の男性は信濃川をそれぞれ北上川に見立てて、一関市の主婦は27年前、夫と北上川のほとりを歩いた思い出と、自分の思いを込めて歌った。歌い方はしっとり方、せつせつ型、ムード型、カラオケ調とさまざま。北上夜曲は誕生から20年間も作者不詳のまま歌い継がれてきたので、歌詞も変わっていたし、歌い方だけでなく曲さえ違ってしまった。こんなに様々な歌い方をされる歌は珍しい。審査も正確かどうかは対象にならないという変わったコンクールだ。

1回のコンクールには作詞者の菊地さん、作曲者の安藤さんも審査員として参加。審査の間には、会場に居合わせた直木賞作家の三好京三さんが、2人のエピソードを紹介し、安藤さん直伝の北上夜曲を自慢ののどで披露した。3人がそろうと、まるで掛け合い漫才のように面白かった。コンクールは22回目の2008(平成20)年まで続いた。

 

正調で歌う歌手はいない

私も北上夜曲への思いがあった。

コンクールの始まった年の新入社員に「北上夜曲を知っているか」と尋ねてみた。

「エッ、北上薬局? どこにあるんですか、それ!」

青春時代に愛唱した北上夜曲を、若い人が知らなかったことにショックを受けた。しかし、他の若者たちも、岩手県に来るまでは知らなかったという。考えれば無理からぬことだ。北上夜曲が初めてレコード化された1961(昭和36年)は私が大学を卒業して就職した年だが、新入社員たちはまだ生まれていなかったのだ。彼らにとって、生まれる前は遥かかなたのことであろう。私などはまるでシーラカンスを見るような気分だったかもしれない。

 安藤さんによると「北上夜曲を正確に歌っているプロの歌手はいない」と言う。「マヒナスターズがまあまあ、大川栄策が原曲に近いが、やはり正確ではありません」と言っていた。私もカラオケでよく歌うが恥ずかしくなった。歌い方の一例を示すと、一般にカラオケなどでは、一番の歌詞で「しい~らゆりの」とか「つう~きのよる」と歌っている人が多いようだが、安藤さんによると「しらゆ~りの」「つき~のよる」と歌うのが正しいようだ。その話を聞いてから、私はそう歌うようにしているが、一般受けはしないようである。だが、その話を知人にしたところ、「それは歌い方の問題ではなく、歌い手の問題でしょう」と一笑に付されてしまった。あぁ!