人事 | 歴史の裏

人事

公平な人事はできるか

 

 ヂヂは若いころ、実力さえあれば会社などでエラくなれると思っていた。だが、経験を積んでくると、そんな理想的なことはあり得ないとが分かるようになった。最近話題の内閣人事局。官僚主導ではなく政治主導を確立するため民主党政権が実現させたものだ。発想はよかったが、安倍晋三政権の運用を見ると、モリカケ(森友学園・加計学園) 問題で顕在化したように、政権の思惑を忖度する人が出世している。だから、本来は国民に尽くすため「中立」であるべき官僚が官邸の顔色ばかり窺うようになり、良心を失っているように見える。民間の人事も同じで、バカのゴマスリが出世しているのが現実のようだ。

 

よい仕事にはポストが必要

 「野心のない奴はダメだが、野心のあり過ぎる奴もダメだ」という言葉がある。芸術家やスポーツ選手のように個人の力で勝負する人は別にして、組織に所属して仕事をするには、それなりのポストがなければ大きくていい仕事はできない。だから、「あれをぜひやりたい」という野心のない人はいい仕事はできない。逆に「エラくなりたい」という野心ばかりの人は信用できない。「総理大臣になって国民に尽くしたい」というのは政治家として当然だが、ただ「総理大臣になりたい」だけが目的の人は政治家になってはいけない。

 

管理職と実務者

仕事には販売とか研究とか、実務に向いている人と、管理・監督に向いている人の違いがある。よきプレーヤー必ずしもよきコンダクターではない。逆も同じで、実務はあまりできなくても指導者に向いている人もいる。そこが人事の難しいところ。日本では、その仕分けをあまりせず、ある年齢になると管理職にしてしまう。実務で腕を発揮している人を管理職にしたら、その会社の損失だということに気づかないらしい。理想的には実務の能力者はスタッフとして管理者と同等の待遇をしてやれば、彼らは嫌な管理職になんかなりたくないだろう。

 

合理的人事は可能

そのことを前提にすれば、合理的な人事はできると思う。ほとんどの会社では評価は上司がやっている。ゴマすりの存在を考えると、上にいいと思われる人が必ずしも下にいい訳ではない。だから、上司のほかに、同僚や部下、さらに自己評価もさせて、それを点数化すれば、「管理職にふさわしい人」「管理職にしないで一線で活躍してもらいたい人」と合理的な仕分けができるはず。取り入れている企業もあるようだが、まだ少ない。最近は人より合理的なAI評価を加えている企業も出てきたが、それだけでは不十分だ。なぜなら、人は人の中で仕事をしているのだから、最後は人の評価でカバーしないと、とんでもない結果になる可能性がある。