奇跡の歌
「ザ・テノール 真実の物語」
標記の映画を日本記者クラブで見た。声を失った世界一のテノール歌手が日本での手術で歌声を取り戻し舞台復帰をなし遂げた奇跡の映画化。ラストシーンでは感動が押し寄せ涙が止まらなかった。
声を失ったオペラ歌手
韓国生まれの主人公ベー・チェチョルさんはイタリアのベルディ―音楽院を修了後、ヨーロッパ各地の声楽コンクールを席巻し、「アジアのオペラ史上最高のテノール」と称された。ヨーロッパの歌劇場で活躍中の2005年10月、甲状腺ガンが判明、摘出手術の際、声帯と横隔膜の両神経を切断。歌声に加え右側の肺の機能を失う。「彼の歌手生命は終わった」と言われる中、日本の音楽プロデューサー輪島東太郎さんの紹介で2006年4月25日、京都で世界唯一声帯復帰手術のできる一色信彦・京都大名誉教授によって甲状軟骨形成手術を受け、声を取り戻した。
日本で再生手術
失意の底にあったチェチョルさんの苦闘により、歌が歌えるようになる。映画は絶頂期から失意後の生活、復帰後初公演までを忠実に描いた。声は戻ったものの、右側の肺機能が失われたため声が続かず、「世界一」のテノール歌手にとっては人前で披露するようなものではない。復帰後初公演に自信が持てず、会場を後にして町へさまよい出てしまう。プログラムのオペラ公演が終わり、最後に歌うチェチョルさんの出番になっても戻ってこない。観客もオーケストラも引き上げてしまう。だが、戻ることを信じる輪島さんら関係者は観客に会場へ引き返すよう懇請し続ける。町中で思い直したチェチョルさんがタクシーで会場へ帰るが、すでにホールは閉められていた。輪島さんがチェチョルさん一人だけ舞台へ導きスポットライトの中に一人立つ。第一声を発すると、会場にライトがつき、満席の聴衆とオーケストラが映し出される感動のラストシーン。
これを契機にチェチョルさんは2008年前半から教会などで演奏を始めるようになった。上映後の会見で二人は「99%事実です」と言っていた。チェチョルさんは「楽器(肉体)はメイドインコリアですが、演奏(声)はメイドインジャパンです」と笑わせた。輪島さんは「復帰した声の大きさは数値的には絶頂期の半分くらいですが、歌に深みが出ました。声が出ても出なくてもチェチョルさんはオペラ歌手です」と言う。チェチョルさんも「病気になってよかった。これからは、神がくださった奇跡の歌声を人々に仕えるために使いたい」と言った。
「逃げることはできない」
手術をした一色さんは、輪島さんに依頼されたとき「私の患者は声を失って声が戻ればいいという人ばかり。オペラ歌手の声を戻すことはやったことはない」と一度は断った。一色さんの弟子たちも「成功しなければせっかくの名声を失うことになります」と断るよう忠告したが、一色さんはあえて不可能に挑戦した。会見に同席した一色さんは「私は父から武士道を教わって育った。名誉が惜しいからといって、患者の苦しみから逃げることは武士道が許さなかった」という。
「いいところを見つめて」
輪島さんは、この奇跡を「ヨーロッパで活躍しているオペラ歌手が韓国人で、プロデューサーが日本人、手術ができる人も日本人。完璧なシナリオ劇を見ている感じです」と奇跡に驚いていた。7月に着任したばかりのイ・ジュンギュ韓国駐日大使も会場に姿を見せ、「日本と韓国にはいいところも悪いところもあるが、お互いにいいところを見つめ合っていくことが私の目標です」と日本語であいさつした。
標記の映画を日本記者クラブで見た。声を失った世界一のテノール歌手が日本での手術で歌声を取り戻し舞台復帰をなし遂げた奇跡の映画化。ラストシーンでは感動が押し寄せ涙が止まらなかった。
声を失ったオペラ歌手
韓国生まれの主人公ベー・チェチョルさんはイタリアのベルディ―音楽院を修了後、ヨーロッパ各地の声楽コンクールを席巻し、「アジアのオペラ史上最高のテノール」と称された。ヨーロッパの歌劇場で活躍中の2005年10月、甲状腺ガンが判明、摘出手術の際、声帯と横隔膜の両神経を切断。歌声に加え右側の肺の機能を失う。「彼の歌手生命は終わった」と言われる中、日本の音楽プロデューサー輪島東太郎さんの紹介で2006年4月25日、京都で世界唯一声帯復帰手術のできる一色信彦・京都大名誉教授によって甲状軟骨形成手術を受け、声を取り戻した。
日本で再生手術
失意の底にあったチェチョルさんの苦闘により、歌が歌えるようになる。映画は絶頂期から失意後の生活、復帰後初公演までを忠実に描いた。声は戻ったものの、右側の肺機能が失われたため声が続かず、「世界一」のテノール歌手にとっては人前で披露するようなものではない。復帰後初公演に自信が持てず、会場を後にして町へさまよい出てしまう。プログラムのオペラ公演が終わり、最後に歌うチェチョルさんの出番になっても戻ってこない。観客もオーケストラも引き上げてしまう。だが、戻ることを信じる輪島さんら関係者は観客に会場へ引き返すよう懇請し続ける。町中で思い直したチェチョルさんがタクシーで会場へ帰るが、すでにホールは閉められていた。輪島さんがチェチョルさん一人だけ舞台へ導きスポットライトの中に一人立つ。第一声を発すると、会場にライトがつき、満席の聴衆とオーケストラが映し出される感動のラストシーン。
これを契機にチェチョルさんは2008年前半から教会などで演奏を始めるようになった。上映後の会見で二人は「99%事実です」と言っていた。チェチョルさんは「楽器(肉体)はメイドインコリアですが、演奏(声)はメイドインジャパンです」と笑わせた。輪島さんは「復帰した声の大きさは数値的には絶頂期の半分くらいですが、歌に深みが出ました。声が出ても出なくてもチェチョルさんはオペラ歌手です」と言う。チェチョルさんも「病気になってよかった。これからは、神がくださった奇跡の歌声を人々に仕えるために使いたい」と言った。
「逃げることはできない」
手術をした一色さんは、輪島さんに依頼されたとき「私の患者は声を失って声が戻ればいいという人ばかり。オペラ歌手の声を戻すことはやったことはない」と一度は断った。一色さんの弟子たちも「成功しなければせっかくの名声を失うことになります」と断るよう忠告したが、一色さんはあえて不可能に挑戦した。会見に同席した一色さんは「私は父から武士道を教わって育った。名誉が惜しいからといって、患者の苦しみから逃げることは武士道が許さなかった」という。
「いいところを見つめて」
輪島さんは、この奇跡を「ヨーロッパで活躍しているオペラ歌手が韓国人で、プロデューサーが日本人、手術ができる人も日本人。完璧なシナリオ劇を見ている感じです」と奇跡に驚いていた。7月に着任したばかりのイ・ジュンギュ韓国駐日大使も会場に姿を見せ、「日本と韓国にはいいところも悪いところもあるが、お互いにいいところを見つめ合っていくことが私の目標です」と日本語であいさつした。