彫刻公園
岩手山との絶妙コラボ
盛岡から国道4号を30㌔ばかり北上すると沼宮内バイパスの西側の小高い丘の上に岩手町役場がある。役場へ辿る道の両側に青々とした芝生があり、あちこちに変わった石が置いてある。「石」と見るのは素人だからで、よく見ると1つ1つが立派な彫刻である。全部で67体。これが岩手町の誇る彫刻公園だが、岩手県内でも認知度はあまり高くない。
産みの親は斎藤忠誠さん
東北角にある黒い御影石製の四角錐の指標碑には
荒廃し続ける文明を救うものは文化でありその原点を秘めているのは地方をおいてもはや他にない
という、公園産みの親の斎藤忠誠さんの言葉が彫られている。この言葉は今でも通用する。いや、今こそ真実味を帯びて響いてくる。
斎藤さんは岩手町沼宮内の山林地主の二男に生まれた。兄が若死にしたため跡取りとなったが、東京の美術学校を卒業しても家に帰ろうとはしなかった。弟の孝三さんが無理やり連れて帰ったが、山に連れて行くと不機嫌になるので、ついに諦めてしまった。家業には熱意を示さなかった忠誠さんも美術のことになると別人のように生き生きとした。
1957(昭和32)年に岩手町を主体とした東北最大の美術団体「エコール・ド・エヌ」を設立した。「エコール・ド・エヌ」は、1920年代にパリで花開いた「エコール・ド・パリ」にあやかったもので、「エヌ」は沼宮内(Numakunai)、北(Nord)などを意味しており、この命名には彫刻公園の指標碑に刻まれたのと同じ忠誠さんの意気込みが読み取れる。
1972(昭和47)年に一戸町の彫刻家高見泰蔵さんと岩手町特産の黒御影石が彫刻に適していることを確認し、翌年から岩手町国際石彫シンポジウムを始めた。国内だけでなく、アメリカ、カナダ、ベルギー、韓国、台湾などからも参加している。その後、ポルトガル、スペインなど欧州からも参加した。忠誠さんは作業場として自宅の蔵を提供し続けた。
シンポジウムは2003(平成15)年までの30回にわたって開催した。回を重ねるごとに内容も充実し、1982年の第10回を記念して岩手町が役場前に彫刻公園を造り、作品を設置した。1993年7月には国道4号を挟んで野外彫刻美術館として岩手町立石神の丘美術館も開館。その後、道の駅「石神の丘」も開設された。
「ほんとの空」と岩手山
私が最初に彫刻公園を訪れたのは1987(昭和62)年8月のことだった。盛岡に住んでいた忠誠さんの弟の孝三さんの案内で賢治・啄木研究家の吉見正信さんと一緒だった。前夜からの雨が上がり、白い雲の間からのぞく空が、言い表せないような色を見せてくれた。清澄というか透明というか、「ほんとの空」とは、こういう空をいうのだろうと思った。岩手県に36年間住んでいた吉見さんさえ「初めて」と感嘆していた。吉見さんも私も彫刻公園の虜になってしまった。公園の南側には岩手山がそびえ、芝生の緑と黒御影石の持つ重厚な彫刻、それに「ほんとの空」とが、見事なコンストラストをなしていた。「ここに立った彫刻家は自分の作品を置きたくなるに違いない」と話し合ったほどだった。