喜寿を迎えて
残日をどう生きるか
本日(2月17日)は76歳の誕生日。勤めていた会社から喜寿(数え年)の祝い品が届き、心配りに感激しました。このブログは基本的に個人のことは書かないようにしていますが、今回はこの原則を破って、個人的な感懐を書きます。
私は若い頃から、自分のことを分かりすぎる嫌いがあり、冒険ができないたちでした。1つのことを継続して勉強するのが苦手なので、弁護士になる夢は高校時代に捨て、ヤクザな職業のサラリーマンになりました。20代にはなんでもできると思っていただけに、30歳を迎えた時が一番ショックで、自分はもうこの世の中で大した業績は上げられないと思いました。その後は不惑、知命、還暦、古稀、そして今回喜寿を迎えても特別の感懐はありません。この年まで生きるなんて思ってもみなかった、というより若い頃はそんなことに思いがありませんでした。
自分のために時間を使わない
職業を選んだ時から、なるべく自分のために時間を使いたくないとの思いがあり、現在まで貫いてきました。だから、人に尽くすこと(利他)にとって無駄になる趣味はやらず、読書もあまりしません。人に尽くすには心身共に健康でなければならないので、いろんな人の話を聞き、対話を心がけるなど頭を鍛えてきたつもりです。体の健康を保つためには、退職後は毎朝、近くの公園での約1時間・7種類の体操と、週1回の太極拳で筋力を維持しています。そのせいか、歩いていて人に抜かれたことはほとんどありません。人と議論して負けることもまずありません。
第2の人生を66歳で卒業し、その後はボランティア的に人に文章を教えたり、憎まれ文を書いたりして過ごしてきましたが、今後はできれば外国へ行って日本語というより、日本人や日本文化、日本の風習などを教えたいとの夢を持っていますが、年齢が壁になって実現できるかどうか、危ぶんでいます。ただ、それが実現できなくても、最低人に迷惑をかけず、できるだけ人の役に立つことのために時間を使いたいと考えています。西行や宗祇、芭蕉、山頭火のような世捨て人にはなりたくなく、死ぬまで市井の人を貫きたい。