高校生の体罰自殺 | 歴史の裏

高校生の体罰自殺

「体罰」じゃなく教師暴力

ヤンキー先生の認識

 大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将の2年男子生徒が顧問の男性教諭から体罰を受けた翌日自殺した問題で、文部科学省の義家弘介政務官(ヤンキー先生)が1月15日、大阪市役所で市教委委員長らに対し事実解明を直接指導した。義家氏は、橋下徹市長が12日に遺族を弔問した際に「行政の責任」と伝えたことを引き合いに出し、「私は同時に『教育の無責任』だと思う。安易に体罰という言葉が使われているが、これは継続的、日常的に行われた身体的、精神的暴力だ」と述べ、教育上の体罰とは性格の異なる問題だと指摘した。会談後には「私はこの事案を体罰だとは思っていない」「教育的な目的から、ミスをしたらコートを10周しろというのはありうるが、気合を入れるために平手打ちするなんて異常だ。街の中なら110番通報される。社会と学校があまりにもかけ離れている」と指摘した。

 この指摘は正常だ。なのに、新聞やテレビはいつまでも「体罰」と報道している。これは明らかに教師による暴力なのだから、「教師暴力」と改めるべきだ。

体罰は違法

 学校教育法は体罰を禁止している。ただし、文科省は授業中の教室での起立や、学習課題や清掃活動を課すことなどは体罰に当たらないとしている。ここでいう「体罰」とは、父母や教員などが「教育的」目的で子供たちに肉体的苦痛を与えること。法律では禁止されているが、学校やスポーツ関係者や家庭には、ある程度の体罰はいいのではないかとの風潮がある。教師に「厳しくやってください」と体罰を容認する父母もいて、体罰が表面化しても、「あの先生は教育熱心」だからという言い訳でごまかされる。警察も本来なら暴力・傷害事件として立件すべきなのに、校内での教師暴力に対し見て見ぬ振りを続けてきた。こうした「体罰」に対する寛容な社会が教師暴力を助長してきた。

 暴力を振るう先生は決して教育熱心なのではなく、教育以外のことに熱心なだけだ。それはスポーツに限らず、音楽や通常の授業でも同じ。勝利至上主義や、学校の名誉、ひいては自分の業績誇示や名誉欲、出世欲、生徒管理に熱心なだけだ。教育は根気のいる仕事である。言うことを聞かせるために殴ればいいというのは忍耐力のない証拠で、教育者にふさわしくないことを教育関係者も父母もしっかりと見つめる必要がある。「少しぐらいの体罰はいいのではないか」が不純な動機による体罰と称する暴力を産んでいる。

 暴力教師による「体罰」は、その子に対する「教育」目的ではなく、自分の指示通りにやらなかったり、うまくできなかった子供に対する制裁や、他の生徒に対する見せしめだったりする。そうした「体罰」はどんどんエスカレートしていく。今回の桜宮高校の場合も3040回(母親の話し)という異常さだ。しかも「体罰」という暴力は波及する。ある中学校のコーラス部で指導教諭がヘタな生徒を叩いていた。すると教師がいない時に、その生徒を他の生徒が叩くようになった。教師の暴力が生徒同士の暴力を招いたのだ。それは暴力肯定、ひいては戦争肯定へと拡大する。恐ろしいことだ。

桑田さんの意識

 元巨人のエース桑田真澄さんが毎日新聞、朝日新聞などのインタビューに答えて次のように言っている。

 「体罰で力のある選手が野球嫌いになり、辞めるのを見てきた。子供は仕返しをしない。絶対服従だと思っているから体罰をする。一番卑怯なやり方で、スポーツをする資格はないと思う」

 「殴って何が解決するのか。体罰を受けた子どもは『殴られないためにどうしたらよいか』と、その場しのぎのことを考えるだけだ。これではうまくならないし、自立心がなくなってしまう」

「校内なら許される」を変えよう

 新聞やテレビは、桑田さんの言葉をかみしめて欲しい。義家さんの言うように体罰教師が自宅近くで同じことをしたら許されるだろうか。それは暴力であり、傷害事件として警察に捕まる。「体罰」という言葉には、なんとなく「教育のため」というニュアンスがあり、世間が「まぁ、いいじゃないか」という感じになりやすい。マスコミが「体罰」といういい加減な言葉使いをやめ「教師暴力」と表記するようにしなければ、学校という閉鎖社会の中だけで通用する「体罰」実は教師暴力はなくならない。