内柴正人逮捕 | 歴史の裏

内柴正人逮捕

スポーツへの誤解




アテネ(2004)、北京(2008年)の五輪柔道男子66キロ級金メダリスト内柴正人(33)126日、準強姦容疑で警視庁逮捕され九州看護福祉大(熊本県)の女子柔道部コーチで実質的監督だったが、9月下旬に合宿遠征中、東京ホテルで部員に性的暴行をした疑い大学はセクハラ行為があったと認定し、1129日、クビにした。本人は「合意だった」と弁明しているようだが、愛し合っているならともかく、自分が指導している学生とセックスすること自体が正常とは言えない。しかも未成年の女子に泥酔するほど飲酒させて「合意」なんて法律的にあり得ない。「合意」を言うなら、飲酒前に合意しなければならない。そうした法律的知識もなかったのだろうか。オリンピック2連覇という輝かしい栄光を背負ったシンボル的存在だっただけに、柔道界はショックを受けている。

 内柴の決め技は「押さえ込み」のようだ。下司の勘ぐりだが、内柴が押さえ込みに励んだのは、今回の事件のための備えだったのか。他にも柔道をやって押さえ込みに励んでいる人はみんなそうなのか、とも思ってしまう。そういえば、ラグビーやサッカーなど強大な体力を要求される運動部員には輪姦やレイプの事件が絶えない。そのための体力増強なのか。

 余談だが、柔道の決め技から「押さえ込み」は外したほうがいい。柔道本来のダイナミックな技が見られなくなり、まるで子供のレスリングごっこのようだから、見るに耐えない。


スポーツへの異常な期待

 日本人は、スポーツの勝敗にこだわりすぎる。オリンピックでもサッカー・ワールドカップでも「日の丸」を背負って勝つことが至上命令のように言われる。だから、スポーツのリーダーは勝つための指導を強いられる。スポーツは趣味か健康のためにやるのが目的で、「勝つ」ためにやるのではないという原点が忘れられいるのではないか。勢い、勝つためなら多少のアンフェアも許される雰囲気になる。テレビのコメンテーターは「日本は勝てます」と話すのが不文律のようだ。これではコメンテーターではなく、日本チームの応援団の1員に過ぎない。誰が見ても勝てそうにない相手なのに、「引き分けか負けです」とはコメントできないのだろう。そんなことを言ったっら、2度とテレビに呼んでもらえないのではなかろうか。

 このブログで何度も指摘しているように、日本では「スポーツや武道をすると精神が鍛えられる」という迷信が横行している。武道やスポーツにそんなに期待すること自体がおかしい。大相撲の不祥事が相次いでいるが、本来は見世物だったのが、「国技」だといって芸人というより精神的スターのような扱いを受けている。大相撲では「心技体」が大切だという。中でも「心」が最も重要視される。しかし、八百長の時も書いたように、自分から名乗り出た力士は1人もいなかった。その事実を前提に考えるなら、大相撲が最も大切にする「心」とは、「バレなければどんな悪いことをしてもいい」ということなのだろう。朝青龍にまつわる一連の出来事もこの延長線で考えられる。相撲協会組織ぐるみの無様な現実を見ると、「相撲で精神が鍛えられる」というのはウソだと分かる。

 ゴルフもそうだ。ゴルフは紳士のスポーツだから、インチキはいけない。他のスポーツでは第3者が認定する打数さえ自己申告。日本の政財界のリーダーでゴルフをやらない人は稀であろう。それなのに、政財界の倫理の欠如は目を覆うばかりである。ゴルフで培った「紳士」らしさとは、政治資金をごまかしてポケットに入れたり、粉飾決算で株主をごまかすことなのかと言いたい。

 前にも書いたが、電車内でスポーツバッグを持った少年たちが我先にと座席を占拠する。老人が立っていても平気だ。この少年たちの指導者はスポーツ本来の「勝つ」ための技術を教えるが、社会的マナーや弱い者を労わろうなんてことは教えていないに違いない。スポーツ本来の「勝てばいい」ということから言えば、座席取りに負けた老人どもは負けに甘んじるのが当然なのだ。


迷信を捨てよう

 「スポーツで精神が鍛えられる」と思っている人が多いようだが、その迷信は早く捨てた方がいい。スポーツによって精神が鍛えられるのではなく、精神を鍛えようと思う人がスポーツを通じて精神を鍛えているのだ。勝つためだけに鍛えれば鍛えるほど心が貧しくなる。だから、心を鍛えようとする人はスポーツでなくてもいい。仕事でも娯楽でも趣味でも人付き合いでも、その気になれば精神は鍛えられる。そのことに日本人は早く気づいて欲しい。マスメディアもいつまでも「スポーツで精神が鍛えられる」という宣伝を早く止めた方がいい。