坊主の妻帯
なぜ出家
寺を継ぐために結婚
テレビの旅番組を見ていたら、地元の寺の坊主が出てきて、「本当はサラリーマンになるつもりだったんですが、寺を継ぐことになったので結婚しました」と言っていた。要するに「寺には大黒(僧侶の妻)が必要なので、地元に帰るためには結婚しなければならない」ということのようだ。これに対し、テレビのリポーターもすんなり受け入れていたのにはびっくりした。
この坊主には宗教心の欠片もなく、寺を継ぐことは八百屋や魚屋と同じように家業を継ぐことで、リポーターもそれが当然と抵抗感がないようだった。日本では宗教が盛んだといわれるが、本当は宗教なんて信じていないという実態を如実に現していた。
国が妻帯許可
坊主は元来、妻帯できなかった。妻帯していいことなったのは1872(明治5)年4月25日、太政官布告第133号が出されてからだ。大体、宗教が国家の決めたことに従うこと自体が宗教の矜持を自ら捨てたことになる。
坊主はどうして妻帯してはいけないのか。仏教の開祖である釈迦は「世俗的な生活をやっていては修行の妨げになる」として出家を勧めた。しかし、修行が目的ではない。修行して悟りを得たら、民衆の中に入って衆生済度に尽くさなければならない。そのとき、親子や妻がいたら、それにとらわれて我が身を捨てて万人に平等に尽くすことはできない。だから、「出世間」を勧めたのだ。この根本を失って寺を継ぐことが単に家業を継ぐことになってしまい、世間一般もそれが当たり前だと思っている。
坊主に生活相談はしない
かつて、困ったことがあれば、お坊さんに相談していた。寺はよろず相談所であり、駆け込み寺でもあった。しかし、今では困ったことがあっても寺に相談に行く人は皆無といってもいいだろう。江戸時代の寺請け制度以来、寺院は行政の一機関に成り下がってしまった。そして、寺を継ぐことは生業の一つに過ぎなくなった。「葬式仏教」などとさげすまれても、仏教者自体は何も感じていないようで、葬式に出向いてお布施をもらい、高い戒名料をくすねることが仕事だと思っている。
本来、宗教者は人間救済のために働く存在であるはずだ。そうした自負を失ってしまった宗教者は誰も信頼しない。むしろ、仏教者より他の宗教の方が宗教に真面目である。キング牧師やマザーテレサがキリスト教を根本に民衆の中に入り民衆救済に努めている姿に日本の坊主どもは学ぶべきだろう。