事象の姿 | 歴史の裏

事象の姿

   三世間

 一念三千の前に「三世間」を説明する。

 「三世間」とは、三種の世間のこと。因縁によって過去、現在、未来にわたり事物が移り変わることを「世」といい、それに差別間隔があることを「間」という。「三世間」とは、この世のすべての事物、事象を三種に分類したもので、全く別に存在するものではない。二説があるが、ここでは大智度論(竜樹著と伝えられる)などに解かれる三世間を解説する。それは()(おん)世間、衆生世間、国土世間の3つである。

 五陰世間 五陰(色・受・想・行・識)が十界によって異なることを表す。「陰」とは集まり、構成要素のこと。「五陰」とは、衆生を構成する5つの要素のこと。要するには、五陰が仮に集まって個々の生命体となったのが衆生(狭義では人間、広義では植物を含む生物すべて)である。

 次に五陰の中身を詳しく説明する。

色陰」は、肉体など色形などに現れている物質的・現象的側面。「受陰」は、人間の知覚器官である六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)がそれぞれの対象となる色(色・形)、声(音声)、香・味・触(暑さ寒さ・柔軟などの物質の感触)に触れて生じる感覚。「想陰」は、受け入れた知覚をまとめ、事物のイメージを心に思い浮かべる作用。「行陰」は、想陰でできた像を整え完成させる作用であり、それとともに生じる種々の心の作用。「識陰」は、受・想・行に基づきながら、物事を認識し、他の物を識別し判断する作用をいう。また、受・想・行の作用を起こす根本となる心の中心的な働きでもある。

 ちょっと専門的で難しくなったが、簡単な例で説明しよう。1つのリンゴがある。そのリンゴを見る側の肉体が「色陰」である。リンゴの色や叩いたときの音、香り、味、手触り、リンゴへの思いを感じるのは「受陰」。その結果、リンゴのイメージを思い浮かべるのが「想陰」。リンゴを食べてみようと思うのが「行陰」。食べた結果、リンゴとはこういう物だということを認識・判断するのが「識陰」となる。

 五陰を色心(肉体と心)に分けると、「色陰」は物質的・肉体的・現象的なものである「色法」。「受・想・行・識」は心的・精神的・本性的なものである「心法」。五陰全体で肉体・物質と精神・本性との両面にわたる一切の事物・事象を示している。衆生の五陰の働きが盛んになって苦しむことを「()(おん)(じょう)()」といい、人間の根源的な苦悩である八苦の1つに挙げられる。

 衆生世間 五陰によって作られた衆生独自の生命に十界の差別があることを示している。草や花、動物には、それぞれ固有の違いがある。植物もピンからキリ。きれいな花もあるし、毒々しい花もある。動物でもサンゴのように動けないものから、人間のように自分の意思で何でも選択できるものもいる。人間もすべて違う。白人、黄色人種、黒人と肌の色が違うだけでなく、知的・運動能力や潜在能力も違う。同じ日本人でも、個々の人間は肉体、精神ともすべて異なる。例え一卵性双生児でも全く同じ人はいない。

 国土世間 十界の衆生の住所に差別があることをいう。地球上には砂漠や草原、森林地帯があり、そこに住んでいる人たちがいる。もっと詳しく見れば、都会や農山漁村地帯に住む人もいる。同じ都会でも、繁華街で生活する人もいるし、高級住宅地に住んでいる人もいる。地方でも、綿密に見れば大きな違いがある。森林が多い場所もあるし、平地が多い所もある。公共交通が発達している場所もあれば、バス停まで1~2時間も歩かなければならない所もある。バスは1日1便という地域も少なくない。

 事象の姿を分析すると、三世間になるというのが、仏教哲学である。いよいよ、次回は生命の実相・一念三千を解説する。