教育勅語Ⅲ
教育勅語ではダメ
教育勅語の復活を唱える勢力が根強くある。その人たちの主張は教育勅語を教えなくなったから、日本はこんな社会になってしまったということ。果たしてそうだろうか。今、問題なのは子供の教育ではなくリーダーのあり方である。戦後の日本を今まで引っ張ってきたリーダーはすべて教育勅語世代である。その人たちが今の日本をつくったことは誰も否定できまい。
現在のおかしな事件はすべて教育勅語世代、あるいはその指導によってリーダーとなった人たちによって起こされている。不祥事の遠因は教育勅語世代だということをきちんと認識するところから始めないと処方箋を誤ることになる。大分県の教育汚職、防衛省の各種不祥事、姉歯建築士をはじめとする雪印乳業、不二家、白い恋人、赤福、船場吉兆、ミートホープ、比内鶏や飛騨牛、三河・一色産うなぎの偽装。どれ一つとっても、すべて教育勅語世代の痕跡である。
理屈は後で何とでもつく。それより現実を直視しよう。
教育勅語の問題点は、このブログの「教育勅語」に詳しく述べた。要点を言えば、「爾臣民」に対し実行すべきいろんな徳目を上げているが、そのすべては
一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼
するためだということである。「一旦緩急」あれば、それらの徳目を投げ捨てて「義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」しなければならない。「公」があっての「忠」であり「孝」であり「友」なのだ。1つ1つの徳目は本当はどうでもいいのだ。
もう1つの問題点は、教育勅語が徳目だけ上げて、具体的な解決策は何1つ示していないこと。こういう抽象的な文言は読む人の解釈でどうにでもなる。1つ1つ顕彰してみよう。
教育勅語の本命は「忠」。それは北朝鮮にあっては「将軍様」に忠節を尽くすことに他ならない。
次に最初の徳目「父母ニ孝」。泥棒の親を持った子は親の言うことを聞いて泥棒することが「孝」となる。
「兄弟ニ友」は現代では余り見られることはなくなったようだ。
「夫婦相和シ」。夫婦の愛のため子供が邪魔になり、殺してしまう親がいる。そう言えば、教育勅語には、親子の情については何も書かれていない。子供は親の犠牲になって当たり前、これこそ教育勅語の望むところか。
「朋友相信ジ」。友だちが仲良く会社経営して決算を偽装し、出資者を騙すことにつながる。教育勅語には偽装してはいけないとは書いていない。
中曽根さんの真の狙い
中曽根康弘氏は首相当時、行革・民活に熱心で、三公社五現業(国鉄、専売、電電の三公社と郵政、国有林野、印刷、造幣、アルコール専売の各現業部門)を解体させた。その真の狙いはどこにあるのか。新保守主義と言われる中曽根さんの悲願は憲法を改正して、日本を再軍備させ、天皇を元首とする国体の復元である。改正のために障害となるのは国会の発議に必要な各議院の3分の2以上の賛成。
改正反対勢力である社会・共産党を瓦解させなければ憲法改正は不可能。両党の支持基盤は労働組合。それを壊滅状態にすることが不可欠となる。労働運動は戦後、親方日の丸で身分が安定している官公労が引っ張ってきた。その元凶が三公社五現業の労組。それを解体させるためには、三公社五現業をなくすことが早道である。中曽根さんの作戦が成功し、三公社五現業がなくなって労働運動が衰退、社会党は支持基盤を失って壊滅状態となった。狙いは実現したのだ。
中曽根氏は正に教育勅語世代。これこそ教育勅語を地でいったことになる。ぜなら、教育勅語の真髄は「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉」ずること。それは目的のためならどんな手段も許されるという思想でもある。要するに、憲法改正のためなら、それを阻害する勢力をつぶすための行革・民活推進も正当化される。教育勅語の本領発揮というところか。
教育勅語が弊害だけだということがよく理解できただろう。
では、それに代わるべき倫理・道徳は何か。批判するだけで、具体的に示さなければ無責任のそしりを免れない。私は世界共通の新たな倫理・道徳を「命こそ至上無二」「報恩」「礼儀」としたい。順次説明する。
「命」「報恩」「礼儀」
Ⅰ 命が目的
沖縄に「命ど宝」という言葉がある。この世で命に代わる価値はないという意味だ。人間として生を受けることは極めて稀なこと。宇宙にある星のほとんどには生命が存在せず、生命のある星はわずかだと考えられる。その数少ない星に生まれてこれただけでも大変なことである。その数少ない星である地球でも、生命体は微生物からクジラまで何億種類もあるのに、生物の頂点である人間に生まれてこれたことは希有なことである。
その上、人類60億人のうちから、たった一組のペアが巡り会うことも凄いことだ。さらに、その一組が子供を授かるとことは単なる偶然ではない。いくら努力しても子供が授からないペアも多い。しかも、奇跡的に子供が授かる場合でも、1つの卵子にたどり着ける精子はほぼ4億分の1。人間として生を受けることはかくも貴いことである。せっかく授かった生命ほど大切なものはない。それこそ何物にも代え難い貴重なものであることを子供の時から教えるべきだ。
人間が行うあらゆる営為は、生命尊重が目的であり、他の目的のための命を手段にしてはいけない。その意味からも生命を奪う戦争は極悪である。犯罪抑止という手段のために目的である命を奪う死刑もやめるべきである。死刑は国家権力が行う殺人といえる。
また、国に住む人たちの命を守ることが国家の目的であって、国土、まして国体を守るために国民の命を犠牲にすることは本末転倒である。
その意味から言って、太平洋戦争中に行った特攻隊は最も下劣な戦法だった。国体を守るという名目で、本来、国家が守るべき若き命を道具にし、戦争責任者の失敗を糊塗するという最も恥ずべき戦法だった。しかも、散らされた若き命はほとんどが犬死だった。戦闘機で軍艦に体当たりするというバカげた戦法が敵軍の意表を衝いた緒戦こそ少しは戦果があったものの、片道の燃料だけを与えられた大部分が操縦技術の未熟な少年兵士は整備不十分のため途中で墜落したり、敵機に撃墜された。好運にして敵艦までたどり着いても艦砲の餌食になり、敵艦に体当たりできた特攻機はほとんどなかった。指導者はそれが分かっていながら、特攻作戦を続け、前途ある青年1万4千人以上の命を奪った。
Ⅱ 報恩
人は1人では生きられない。よく「オレは誰の世話にもなっていない」とうそぶく人がいるが、その人の食べる物、着る物、住む家は誰が造ったのか。人が生きていくためには、自分では知らないうちに何万人もの世話になっている。それらへの報恩を忘れてはならない。自分が生きている以上、報恩こそ人間としての基本である。
仏教では「四恩」を説いている。四恩の分類には各種あるが、主なものは①父母の恩②一切衆生の恩③国王の恩④師匠の恩であろう。これを私なりに現代に当てはめれば①親の恩②生業の恩③師の恩④一切衆生の恩となる。
①親の恩 前項で述べたように、この世に生を受けることは容易なことではない。男と女が出会ってセックスしただけで生まれるわけではない。生を受けることは奇跡と言っても言いほど希有な出来事だ。だから、先ず自分を産み育ててくれた両親に感謝しなければならない。
②生業の恩 生きていくための生業に感謝する。具体的には所属する企業や団体・組織、あるいは職業がそれに当てはまる。スポーツや芸能人、職人、自由人なども、その職業のお陰で生活が成り立っているからだ。学生の場合も所属する学校や塾、クラブなどである。
③師の恩 「我以外すべて我が師なり」との格言がある。人間は生を受けてからあらゆる人に教えを受けながら生きてきた。生きるということは、出会ったすべての人に教えを受けていることだ。その人たちに感謝しなければならない。
④一切衆生の恩 初めに述べたように、生きていくことは、この世のすべてにお世話になっていることである。「衆生」とは狭義では人間のことだが、広義では植物を含め生きとし生けるものすべてである。仏法で言う「法界」となると、無機物を含め宇宙のすべてである。人間はこの宇宙から生まれてきた。だから、宇宙そのものの存在に感謝しなければならない。
「報恩」こそ、すべての人類が実行すべき誠の実践倫理である。教育勅語が教える奉ずべき「公」などを遙かに超える深い次元の倫理・道徳と言えよう。
Ⅲ 礼儀
相撲は「礼に始まり礼に終わる」と言われる。相撲だけではない。この世で生活する基本は礼である。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「おやすみなさい」をしっかり言えること。そして人に何かしてもらったら「ありがとうございます」。自分が間違ったことをしたら「ごめんなさい」を言えることが基本である。
一連の食品偽装で、経営者が心底から「ごめんなさい」と言ったか。形式的には謝罪したかも知れないが、最初は従業員のせいにしたり、ウソがばれると、「業界ではみなやっている」とか「消費者が安い物を求めるのがいけない」などと言い訳をする。こうした人たちは皆、教育勅語で育ったか、教育勅語で育った人に指導された人たちである。これらの事象を見れば教育勅語が日本社会形成にマイナスにしか働かなかったことが証明される。