江刺挽歌Ⅱ
現代の江刺
岩手・宮城内陸地震で岩手南部が大被害を受けた。一関市や奥州市など思い出深い地の人たちが被害を受けたことに衝撃を受けている。奥州市は江刺市、水沢市、胆沢町、前沢町、衣川村の5市町が合併した。地震被害が大きかったのは、報道によると胆沢、衣川ので、江刺はそれほどではなかったようだ。
旧江刺市は変わった町だ。青々と広がる水田地帯の中に、こぢんまりとした街並みがある。中心部の岩谷堂以外に目立った集落はない。県内の旧13市の中でJRの駅のない唯一の市だった。そのせいか県南の北上盆地にありながら人口が減る過疎地。それでいて、岩谷堂ヨウカン、卵メン、金婚漬、しみ豆腐など特産品が多い。歴史の古さが産業の中に息づいているのだろう。
◇良質の農産物
自然に恵まれており、「市全体が自然公園のようなもの」と言われる。それだけに、農産物にはいい物が多い。ここで採れるササニシキは江刺が誇る農産物。昭和5年、穀物検査所の許可を受けて全国で唯一「金札」をつけることになり、「江刺金札米」として名声を高めている。大正時代から東京、名古屋などへのルートが確立されている。
「江刺リンゴ」は東京、大阪で好評。全国に先駆けて「矮化栽培」を導入した。北上台地の土壌がリンゴ栽培に適しており、「日本1」の折り紙がついている。
「陸中牛」は江刺で繁殖された黒毛和牛の子牛のこと。子牛は前沢や松阪に出荷されており、全国1高い値段で取り引されている。
このほか、レタス、ピーマン、キュウリ、トマトなど野菜類も平野部から高原地帯にかけて周年リレー出荷されており、評価が高い。
◇岩谷堂ダンス
特筆されるのが「岩谷堂ダンス」。江刺の代表的特産品である。街の中心街にはタンス屋の店舗があり、至る所にタンス屋の広告が見られる。その重厚さが受けて東京などで人気を呼び、注文から納品まで3カ月もかかる。
岩谷堂ダンスの起源は、奥州藤原氏・清衡時代の康和年間(1100年頃)まで遡る。豊田館にいた清衡が産業振興したのだといわれている。飯台から始まり、長持ち、タンスと発展していったらしい。一時はすたれたが、1783(天明3)年、岩城城主・岩城村将の命を受けた三品茂左エ門がタンス金具、塗装の研究をした。文政年間には喜兵衛、大吉によって彫金金具が考案され、伊達藩の奨励を受けて盛んになっていった。二百年の伝統の重みがある。1982(昭和57)年、国の伝統工芸品の指定も受けた。年間7千本を生産している。
岩谷堂ダンスの工程は全部で百ほどある。大きく木工、塗装、彫金に分かれるが、手作りの部分も多い。ケヤキを主体にした木具は木クギを使い、金クギは使わない。引き出しなど中枠は桐。重厚な漆塗りで仕上げる。手打ち金具は国内でも唯一といわれ、金具だけ買いたいという希望があるが、創設以来の秘伝だけに、金具だけでは決して売らない。
最近は、タンスのほか、民芸的な小ダンス、サイドボードなどの新製品も開発されており、装飾品として贈り物にも使われている。東京のデパートなどでは百万円もする物がよく出る。