江刺挽歌Ⅰ
アテルイ
旧江刺市(現奥州市)の中心街を流れる人首(ひとかべ)=蝦夷川のほとりを歩くと、山陰や川岸の茂みから短弓を背負い、蕨手刀をふりかざして馬に乗ったエミシ
たちが飛び出してくるような錯覚にとらわれる。ここは、古代、坂上田村麻呂率いるヤマト10万の大軍を相手にエミシの英雄・アテルイがゲリラ戦を展開したところだ。
江刺の人には悪いが、「えさし」と言えば、ほとんどの人が江差追分の北海道江差町のことだと思う。「岩手県の江刺です」と言うと、「そんなところあるの」という答えが返ってくる。それほど、「江刺」の名は知られていない。
えさし藤原の郷
大河ドラマ「炎立つ」ロケのために奥州藤原氏初代・清衡が居を構えたNHKそれでも、観光で「えさし藤原の郷」を訪れた人は、かすかに覚えているかもしれない。これは奥州藤原氏4代を描いた、平成5年の豊田舘(とよだのたち)近くに建設された建物を保存した歴史公園。約20ヘクタールの広大な敷地に国内唯一の「寝殿造」をはじめ平安時代の建築物を大小合わせて117棟が再現されているので、その後も多くのロケに使用されている。一度訪れたことのある人はテレビの画面を見て、それが藤原の郷だと分かるだろう。
坂上田村麻呂
「江刺」の地名が征服者である大和朝廷側の記録に出るのは9世紀になってから。平安時代の正史である「続日本後記」の承和8(841)年3月2日の条に「江刺郡」の名が登場する。これは「江刺」が大和朝廷の支配下に入ったことを示すもので、「江刺」の歴史はもっと古い。おそらく大和朝廷より古いだろう。古くから人が住み、出土された石器などから見ると、2万年前までさかのぼる。縄文時代には集落が発達していた。だが、有史時代に入ると、江刺は岩手県以外の人にはそれほど知られず、現在に至っている。
延暦8(789)年、紀古佐美率いる5万3千のヤマトの侵略軍が胆沢光力に進撃してきた。迎え撃つはアテルイ率いるエミシの軍2千。アテルイは、川を利用してゲリラ戦を仕掛け、ヤマト軍に大勝した。このため大和朝廷は征討軍を立て直し、最高10万の軍勢を派遣した。アテルイはもう1人のリーダー・母礼(もれ)
と共に善戦したが、ついに降伏。実は長い兵站部でヤマト軍には脱走者が相次ぎ、征夷大将軍・坂上田村麻呂が和睦を申し入れたのが真相らしい。このため、田村麻呂は2人を天皇に会わせようと、都へ連れて行った。
田村麻呂は立派なリーダー2人に礼をもって遇しようとしていたが、2人の野性的な面魂に驚いた都人たちが「このものたちを放したら、まるで虎を飼うようなものだ」と、田村麻呂の思惑を無視して、河内国杜山(大阪市枚方市)で処刑してしまった。
エミシの自治区
この戦いの結果、エミシは一応、大和朝廷に従属したわけだが、都から遠い奥州を治めることは事実上不可能。陸奥守を胆沢城(岩手県奥州市)に派遣していただけで、実際の奥六郡は俘囚(朝廷の支配下に入った蝦夷)長であった酋長・安倍氏の自治区だった。11世紀半ばに陸奥守になった源頼義が安倍氏を滅ぼそうとして起こしたのが前九年の役。後三年の役を経て、奥州は頼義に味方した清原氏に任されるが、清原氏の戦利品だった安倍一族の女の連れ子・藤原清衡が後に実権を握り、再びエミシの自治区となった。
奥州藤原氏の原点
江刺には藤原清衡と、その父の経清が住んでいた。平泉に移った清衡は黄金文化を中心とする絢爛豪華な奥州藤原時代を築き、1189年、頼朝に滅ぼされるまで約100年にわたる藤原4代の平和な時代が続いた。江刺は奥州藤原氏の原点となった地である。清衡は平泉に居を移すまでの30年間、江刺市岩谷堂の豊田館に住んでいた。それが、えさし藤原の郷の近くの史跡。ほぼ同じ場所に中世の豪族・江刺氏が岩谷堂城という拠点を構えていたらしく、現在の遺構は、江刺氏のものと思われるが、標識には「藤原氏御館跡」とある。