空の本質 | 歴史の裏

空の本質

空仮中の三諦

 「空」を理解するためには「(くう)仮中(けちゅう)」の三諦を理解しなければならない。仏典では、1つの理念をいろんな角度から説いている。空仮中の三諦は仏の悟った真理を3つの側面から説いた。仏の3種の身を説いたのが報身、応身、法身の三身。観法(思索、分別)からは空観、仮観、中観の三観。仏の徳相からは般若、解脱、法身の三徳。生命の変化から見れば如是性、如是相、如是体。肉体と心から見れば心、色、色心となる。

 いろいろに説かれているが、簡単に言えば、「空」はあらゆる事物・事象(諸法)に固定的な実体はなく空である。「仮」は諸法に固定的な体はないが、縁起(原因や条件)によって仮に存在している。「中」は、諸法は空、仮の面を備えながら、それらにとらわれず、根源的・超越的面を示す――ということ。

更に分かりやすく説明すると、空は内面の性質で精神、心、智恵など。仮は外面の姿、形。中は空と仮が一体となった実体。この3つは、個々に独立したものではなく、一体となって相互に内在しており、それを仏法では「三諦円融」とか「一身即三身」「色心不二」などと説明している。

私たちの身体も、心や体が別々にあるのではなく、それが一体となっている。宗教家と称する人たちが、心の持ち方1つで人生が変わるというようなことを説くが、それはウソである。隣は金持ちで我が家は貧乏、友人は健康で自分は病弱という実体を無視しようとしても事実は変わらないから、気の持ちようによって人生が変わるなんて、それほど世の中は甘くない。

肉体を離れた精神はないし、精神を備えていない肉体もない。ある人を見るとき、身体と心を一体のものとして見ているのが実体である。ある人の肉体だけ、心だけというとらえ方はしない。世の中の事象も同じで、仏教者の中には、この世はすべて空であると説く人がいるが、それは仏教の究極である空仮中の三諦が分からずに言っているのだ。この世で起きた事象はすべて事実である。釈迦も現象を離れた実相はないと説いている。だが、それだけでもない。事象の奥には本質があり、事象と本質を備えた存在が宇宙の実相である。

われわれの生活に即して解釈すれば、進歩、調和、原点とも言えよう。進歩が行き過ぎると弊害が出る。そこで調和を求めなければならない。調和を優先すると進歩がなくなる。そのときは原点に戻ればいい。この3つをうまく機能させれば、人生も社会もバランスのとれた発展が望める。