海自への迷信 | 歴史の裏

海自への迷信

不審船事件の真相


国際貢献を別にすれば、戦後62年間、日本国を自ら守るという本来の目的からすれば、訓練に明け暮れ実戦に出動したことがなかった海上自衛隊が初めて実戦で出動したのは、2000(平成12)年3月に能登半島沖で発生した不審船事件だった。海上保安庁の巡視船が追いきれず、3月24日午前零時50分、海上自衛隊に史上初の海上警備行動が発令された。しかし、不審船は警告射撃や追撃を振り切って防空識別圏を越えたため、午前6時過ぎ追跡は打ち切られた。


追尾可能だった海上保安庁

 「海上保安庁ではだめだから自衛隊の出番」という結果になったが、海上保安庁は本当に追い切れなかったのだろうか。自衛隊に遠慮してか、海上保安庁幹部は絶対に口に出さないが、朝日新聞など一部のマスコミが主張するように、双方に犠牲が出ても日本の権益を守る覚悟があれば、追尾・捕捉は可能だったのではないか。

 不審船発見の第1報が海上自衛隊から海上保安庁に入ったのは3月23日午前11時。不審船事件は、公式にはこれがスタートだった。しかし、その後の国会質疑や記者会見などで、野呂田芳成防衛庁長官(当時)は21日深夜には断片的情報があったことを認めている。22日午後には舞鶴から自衛艦3隻が出港、23日午前6時42分に1隻目の不審船を発見した。自衛艦出港から半日以上も時間をムダにしている。せめて午前6時42分の時点で連絡あれば、海上保安庁の対応は違っていただろう。


出番を作るシナリオ

なぜ、情報があった時点で海上保安庁に連絡しなかったのか。「自衛隊の出番を作るシナリオだ」と朝日が報じているが、事件後の法制化論議への高まりを見ると、そうした勘ぐりもしたくなるような対応だった。

巡視船は不審船のスピードに追いつけなかったとされていた。しかし、海上保安庁には当時でも35ノット(約65㌔)出せる180㌧型高速巡視船は10隻あった。事件が起きた九管管内には配属されていなかったが、日本海側の舞鶴、浜田には配属されていた。不審船の船速は3035ノットだったというから、情報が早く入り、初めからこの2隻が出動し、ヘリコプターで不審船に風圧をかけながら、2隻が交互に追跡していれば、果たして取り逃がしていただろうか。


マニュアル作っても守らない海自

この事件により海上自衛隊との連携が十分ではないことが明らかとなり、不審船を取り逃がした反省から、同年12月に海上保安庁と防衛庁との間で「不審船に係る共同マニュアル」が策定された。マニュアルには、海上保安庁と防衛庁は「所定の情報連絡体制を確立し、初動段階から的確な連絡通報を実施」することが決められた。だが、マニュアルが出来ただけで連携がうまくいく訳ではない。運用する組織がちゃんと守って初めて機能するのだ。翌平成13年暮れに奄美大島沖で発生した北朝鮮工作船事件でこれが証明された。マニュアルは海自によって無視されたのだ。

海自の哨戒機が撮影した工作船の映像が防衛本庁に届いたのは9時間後と発表された。その理由が振るっている。映像を送るシステムがなかったという。バカなマスコミがこの発表の尻馬に乗って海自の映像を送るシステムの構築が必要とはやし立てた。マスコミの応援で海自はシステム構築ができた。

ふざけちゃいけない。平成13年なら、携帯電話でも映像くらい送れる。映像が機密を要するというなら、映像の意味するものは何だということは別ルートを使えば済むことだ。こんないい加減な言い訳はない。

要するに、防衛庁(当時)は海上保安庁の出足を遅らせ、能登沖の不審船事件のように自分らの出番(海上警備行動の発動)をつくろうとしたに違いない。情報をいち早く握った自衛隊が国民の安全より自分らの組織を大事にしている証拠だ。太平洋戦争でも、沖縄で軍が、本来は守るべき住民を射殺している。このことは、軍隊とは、国民の安全より自分らの組織防衛を重要視していることの証明である。

軍隊があっても国民の安全は守れない。