空とは
空について
瀬戸内寂聴さんが京都に造った寂庵で般若心経の講義をしている。般若心経は300字足らずの一切経の中で一番短い経典で、全体が「空」について説いている。有名な「色即是空空即是色」もこのお経の言葉。「空」は仏教の根本をなす理念の1つで、これが分からないと仏教が理解できないと言ってもいいくらいだ。
寂聴さんは初めの部分の「照見五薀皆空度一切苦厄」の講義で、「隣の家の主人が立派な人で、金があって高級車を持っている」という例を挙げ、「それはないと思えばいい。そうすれば救われる」と解説している。
ここの文は、観音菩薩が「五薀は皆空なりと照見せられ、一切の苦厄を度したもう」という意味。五薀とは「色受想行識」のことで、衆生を構成する五つの要素。本当は深い内容を含んでいるが、簡単に言えば、喜怒哀楽の基になる要素と考えればいいだろう。それがすべて「空」だと悟れば、すべての苦しみや災厄から救われるということでだ。寂聴さんの言うとおりなら、ないと思えば救われることになるが、あるという事実はなくならず、そんなことでは絶対に救われない。「空」とはそんなチンケな理念ではない。
「空」について、ほとんどの僧侶たちは寂聴さんと同じように、「無」と同じだと考えている。それは間違いである。「空」は「無」ではない。「空」は「有」でもなく「無」でもない。あるかといえばない、ないかといえばある。そうでありながら、実在するものが「空」なのだ。心で例えてみよう。喜んでいるとき「悲しんで見ろ」と言われても悲しみの心は出せない。逆に悲しんでいるとき、「喜んでみろ」と言われても出せない。しかし、喜びも悲しみも皆が持っていることは誰でも知っている。これが「空」である。
もう1つ、例えを出してみよう。私たちのいる空間には多くの電波が交錯している。それは目には見えないが、電波の受信器をスイッチオンすればテレビもラジオも携帯も受信できる。では、電波はあるかといえば、受信器がない限り出せない。ないかと言えば受信器を持っていれば音が出せる。電波は「空」に似ているが、電波は存在するから、本当の意味での「空」ではない。しかし、この宇宙空間には見えないエネルギーが充満している。それは現代の科学が証明している。引力、重力、大きな相互作用、小さな相互作用などである。「宇宙空間」は何もないのではなく、多くの力が潜在している。だから「空間」といい、「無間」とは言わない。この宇宙はビッグバンから始まったとされる。それ以前の宇宙は正に「空間」だといってもいいだろう。それが何かのきっかけで、大きな力となり、宇宙を形づくる。
仏教では、この世はすべて「空」であると説く。それが何かのきっかけで外に現象として現れる。そのきっかけを「縁起」という。だから、「空」は「無」ではない。物事の根源をなすものである。
解剖学者の養老孟司さんによると、心は体のどこにもないという。脳は体全体の司令塔だが、脳のどこを探しても心は見つからない。しかし、われわれは自分が心を持っていることをよく知っている。脳を解剖してなかったから、心がないとはだれも思わない。この心が「空」なのだ。
喜怒哀楽の基である五薀が「空」であることが分かれば、すべての空厄から救われるとは、こういうことだ。よその家が高級車を持っているのを「ないと思って」もあることに変わりはない。「ないと思えばいい」では解決しない。「五薀」は「空」なのだから、この世は縁によってどうにでもなる。苦しみを克服できる強い心も人間は持っている。努力によって高級車を持つこともできる。また、高級車があるから幸せなのではない。高級車はなくとも、人の幸せは得られる。これが「照見五薀皆空度一切苦厄」の意味なのである。
ただし、仏教では「空」は「空」だけで存在するとは説いていない。「空仮中」の三諦円融の中の「空」だという。この「空仮中」が分からないと、本当の意味での「空」は理解できない。では、「空仮中」とはなにか。それは次回以降で。