茶道 | 歴史の裏

茶道

侘数寄常住

 

 松風を聞く――静寂な茶室に釜の湯のたぎる音を聞く一時、客も亭主も茶の湯の世界にひたる。国内の茶道人口は350万人とも言われている。その9割は女性だが、かつては武士のたしなみだった。男に合わせるため、女が習いだした。茶道をたしなむ女性は文化人だった。

茶の木は805(延暦24)年、最澄が持ち帰り比叡山に植えたのが始まりで、日本でも栽培されるようになったという。現在のような茶の湯の作法を集大成したのは利休だった。秀吉は戦国時代によって荒れた民の心を落ち着かせ、武士と町人との融和に役立てるため、茶の湯を積極的に利用しようと利休を側近に仕えさせ、自らも茶道を楽しんだ。

 お茶は総合芸術だといわれる。利休はじめ茶人は自分で道具も作った。庭で有名な小堀遠州は造庭、建築、書画、和歌、陶器とあらゆることに才能を発揮している。茶碗や菓子器、茶杓、茶筅、茶入れ、香合、釜、床の掛け軸、花と、茶道で使う物は、陶磁器、漆器、竹製品、鉄器、書画、と広い。更に、庭、茶室となると「総合芸術」というに相応しい。お点前はその入り口に過ぎない。

 茶事は一服のお濃茶のために、亭主は未明から起きて準備する。本来は料理も自分で作る。懐石料理を食べている間には謡曲や詩吟も披露される。芸術すべてに通達していなければならない。しかも、心を込めて客をもてなすのだから、客の方は一切気を使わなくてもよい。入り口のお点前は客に経過を楽しんでもらうという珍しい芸術でもある。

利休が秘伝を授けた矢部善七郎に与えた「侘数寄常住 茶之湯肝要」という言葉は「茶の心は常に忘れてはならない。茶を点てることも大切である」というほどの意味。要するに「原点を常に心にとめながら仕事をする」ということ。これは、どんな立場、どのような職業にも当てはまる。倫理を喪失したかと思われる日本のリーダーに心がけて欲しいものだ。