白鹿と天道 | 歴史の裏

白鹿と天道

白鹿と天道

◇白いシカ

 岩手県釜石市の郷土資料館に白いシカの剥製がある。1986(昭和61)年3月に市内唐丹町の山林内で野犬にかみ殺されているのが発見された。2歳の雄。白鹿は10万頭に1頭と言われるほど珍しい。

 白いシカは昔から「神の使い」と言われ貴重がられた。釜石市に隣接する遠野市に伝わる遠野物語にも出てくる。第32話には、「千晩が嶽」のいわれについて、漁師が白い鹿を追って千晩こもったので名付けられた。第61話には、猟師が白い鹿を射止めたが、よく見ると、白い石だった。熟練の猟師が鹿と石を見誤るはずがなく、全く魔障の仕業だと思った、という2話が収録されている。

◇伯夷・叔斉と(はく)鹿(ろく)

 白鹿にまつわる話は中国にも多い。中でも「采薇の歌」にまつわる伯夷と叔斉の話は教訓と悲哀の物語だ。約3千年昔の中国。殷の時代に遼東にあった孤竹という小国に3人の息子がいた。父は末子の叔斉を溺愛し、家督を相続させようと思っていた。父の死後、叔斉は長兄を差し置いて位を継ぐのは人倫にもとると長兄に譲ろうとした。しかし、伯夷は父の遺志に背くことこそ人倫にもとるとして受けない。「自分がいたのでは…」と思った伯夷は密かに出国してしまった。これを知った叔斉も兄の後を追った。宙に浮いた家督は国人が相談して次男に継がせた。

 さて、出国した2人は、人徳の聞こえ高い文王を慕って周へ行ったが、間もなく文王は死んでしまった。太子の発が位を継ぎ武王と称した。武王は諸侯に呼びかけ100日以内に殷の紂王討伐の軍を起こす。武王が父の位牌を車に乗せているのを見た伯夷、叔斉は「父王の祀りも十分にすまさないで戦を起こすのは不幸ではあるまいか。また、いかに悪逆非道とはいえ、紂王は天子である。主君である紂王を打つのは仁とはいえない」と諫めるが入れられない。幕僚が出陣の血祭りにしようとしたが、太公望呂尚の進言によって救われた。よろよろと立ち去る2人を太公望は「ああ、義人なるかな!」と見送った。

 やがて、周は殷に代わって天下を治めるが、2人は周のアワを喰うことを潔しとせず、首陽山に隠れ、ワラビを取って露命をつないだが餓死する。その寸前に彼らが作ったというのが「采薇の歌」である。

 かの西山に登り その薇をとる

 暴をもって暴に()え その非を知らず

 神農虞夏忽焉として没す 我れ(いず)くにか適帰せん

 于嗟(ああ)()かん 命の衰えたるかな

 この物語には後日談がある。ワラビを取って命をつないでいた2人を見て通りかかった王糜子という者から「ワラビも周王の物ではないか」と非難され、ついに食を絶つ。これを見た天が哀れと思い、白鹿を遣わして2人に乳を飲ませた。しかし、叔斉が「乳を飲んでもうまいのだから、まして肉を食えばもっと……」とつぶやいたため、白鹿は来なくなり2人はついに餓死する。

◇司馬遷と史記

 漢の司馬遷が著した壮大な歴史書「史記」69の列伝の筆頭に伯夷列伝がある。漢の武帝の天漢2(BC99)年に匈奴征伐に向かった李陵の部隊が全滅、李陵は捕虜となった。勝報が届くたびに李陵を称賛していた人たちは一転、彼を非難した。ただ1人、李陵を弁護した司馬遷は武帝の怒りに触れ、宮刑(去勢)に処される。

 司馬遷はこの恥辱に耐え、「史記」を書き続

けた。真実の歴史を残そうとの執念からだっ

た。中国では「天道親なし、常に善人に(くみ)す」

というが、司馬遷は、自分の禍と善人の伯夷、

叔斉が餓死した例から「天道是か非か」と重

大な疑問を投げかけ、これが史記の命題にも

なっている。

◇天道是か非か

 ただし、白鹿の話は史記にはない。後に漢の劉向が著した「列士伝」に出てくる。司馬遷が「天道是か非か」と疑問を投げかけたが、儒教の教えを受けた後世の人が「天は善人を助けたが、叔斉の一言が身を滅ぼした」という教訓として創作したのではなかろうか。

 「采薇の歌」は殷に代わって天下を治めた周の行動を「暴をもって暴に易え」と、殷の暴虐を倒した新しい暴力ではないか。政治の理想とされる神農、虞(舜)、夏(禹)の時のような禅譲の香りは見られないと、痛烈に非難している。

人類の歴史では、一部を除き、暴力(武力)の強い奴が世を支配してきた。これでは本当の平和は得られない。「悪」の勢力は強く連帯しやすいのに対し、「善」の勢力は常に弱く、孤独であった。本当の平和を達成するためには「善」が強くなるとともに、「善」の連帯を構築しなければならい。弱い「善」は悪を防げず、「悪」と同じにことになるからだ。