あい | 歴史の裏

あい

  愛を超えて

 愛にはさまざまな形がある。自己の価値を高めようとする自己愛。男女間に芽生える心情愛やエロス愛。神や真理、人類、祖国、友情、親子の愛などの精神愛。ひたすら対象の価値高揚に努める没我愛。どの愛も、ある対象に引きつけられた時に起こる精神的過程であり、対象を愛することによって精神的に充実し幸福感が得られる。しかし、愛が対象に受け入れられなかったり、愛することが成功しなかったりすると、憎しみや不満足感が生じる。このため、自己や愛する対象を不幸にすることもある。その意味で愛は絶対ではなく、相対的価値といえよう。

 これに対し、「愛」とよく併記される「慈悲」は、絶対的価値である。慈悲とは「抜苦与楽」の意味で、他人の幸福に尽くすことが自分の幸福を増すという本源的な利他の行為であり、愛のように精神的過程ではなく、結果である。極端に言えば、憎しみの情を抱きながら行った行為でも、人々の苦しみを救い、喜びを与えることはできる。理屈はそうだが、仏や菩薩は、善悪を超越し衆生をこよなく愛する崇高な無我愛を生命の奥底に秘めている。慈悲は行動の中で自然に発現するものであり、仏の状態そのものが慈悲と言われている。

 愛の宗教といわれるキリスト教では、神のために隣人をも己れのごとく愛し、敵さえも愛さなければならない。その限りでは絶対的価値の意味合いが強いが、十字軍に象徴されるように、神の敵に対しては憎しみを抱く。イラク戦争の場合も、その要素が強く、アメリカが唱える「民主化」の大義も「キリスト教的民主主義」を押しつけるものだと、イラクの人たちに思われ、反発を買っている。

絶対的価値である慈悲には、そうした矛盾はない。「愛」の対語は「憎しみ」だが、慈悲に対語はない。慈悲の対局は無慈悲である。慈悲を体現するのは容易ではないが、危機を迎えた地球を救う道は、無我愛を持つ人を少しずつ増やしていくしかない。