姿勢という 篩(ふるい)に掛ける
篩(ふるい)に掛ける僕が通っていた小学校は、運動会を裸足で行うのが定例でしたが、ご時世もあってか、4年生くらいの時には、靴を履いて行う形になってしまいましたが、裸足で行う分、校庭の準備もなかなか大変でした。草むしりから始まり、次に大きめの石を拾いそして、校庭の砂を篩(ふるい)に何度もかけて、小さな石も取り除くという準備期間がありました。準備は大変でしたが、篩(ふるい)にかけられた、砂はよく言えば、砂浜みたいになり、裸足であるいていても気持ち良い感じになるんですね。こういった文化は、再会することはもうないとは思いますが、裸足で校庭を思いっきり走るというのは、とても貴重ですし、足裏や足の指を小児期に刺激してあげるのは、とても良い事だと思います。少し、前置きが長くなりました。校庭のような膨大な量の砂のなかから、足の裏で踏んで痛みがあったり、怪我をしてしまうような、小さく硬い石などを外見上の目視で見つけて取り除くというのは、なかなか難しいと思います。それこそ、何度も何度も篩にかける事で、最初は見えもしなかった小石を見つけることが出来て、裸足で踏んでも気持ちの良い地面になります。自分の中の、奥底にある感情、潜在的な思考、癖やパターン、出てきた時には、分かるけれど、いざそれを、どうこうしようにも、普段は、奥底にあるから分からないし、出てきた時には、もうそれ自体はどうしようも出来ない。裸足で尖った石を踏んでしまって、傷をつけるようなもので、踏む直前まで無いものと無いものと思っていたら、踏んでみて初めて気がつき、気がついた時には、ケガしているようなものです。選択的に、拾いあげて、浄化、解消、解放できれば、それが一番なのかもしれませんが、まぁ、なかなかそうもいかないのが、潜在的なものですよね。というのも、人にとって、必要や不必要というのは、もしかすると、外側から見たりしていても、実はその判断すらも合っているかどうかもわかりません。不必要なものを、ゴミのように選択的に捨てたり、無いものにしようとするという特性は、あてはまらないのかもしれません。必要なモノが残る結果として、残ったモノが必要なものであって、残らなかったモノは、必要ではなかったしかも、そのタイミングも重要で、もっと早くに、不必要なモノが無かったら・・・もっと早くに、必要なモノと不必要なモノの振り分けが出来ていたら・・・『どんなに良かったか』良かったかもしれませんし、案外そうでもなかったかもしれません。このタイミングで、残ったモノ、残らなかったモノにこそ、意味がある。と、個人的には思います。もちろん、選択的にそれを解消できるような、摩訶不思議なパワーをお持ちの方もいるかもしれません。裸足で行う、運動会で誰も怪我をしないようにと、なんどもなんども、みんなで校庭の砂を篩にかけたからこそ、裸足でおもいっきり走ることが出来ました。そう、篩に掛ける人の細胞は、振動しています。身体も振動しています。その振動を、軸をブラさずに、振動数を上げて、何度も何度も、篩に掛けるように、細胞や体全体を振動させる(ブルブル健康器に乗るって事じゃないですよ(笑))姿勢を整える というのは、これっていう型にはめるのではなく、まず、軸を安定させて、その上で、細胞や身体の振動数を上げていく事です。軸がある振動は、振動数が上がれば上がるほど、中心に綺麗にまとまります。ちょうど、コマの回転が速い方が、まるで止まっているかのように回っている状態です。姿勢を整えていく過程は、砂を篩にかけているのと、ちょっと似ていると思っています。『こんな面倒な事・・・』って、言う生徒も中にはいました。確かに、地道で面倒です。一回の篩に掛ける行動では、何の為にもならないような気すらします。でも、その先を見れば、着実に、裸足で気持ちよく走れる校庭が待っている。姿勢もそう。癖もそう。そんな風に、思います。